あなたは山県昌景という人物をご存知でしょうか?
山県昌景はかの有名な武田信玄の家臣で、武田家臣の中でも重臣だった武田四天王(他に馬場信房・内藤昌豊・高坂昌信)の一人として後世には数えられています。
武田信玄の晩年期には武田軍の副将として活躍しました。
今回は山県昌景について
- 山県昌景の生い立ちとは?
- 山県昌景の経歴や最後は?
- 【エピソード】山県昌景の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば山県昌景の経歴や性格がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
山県昌景の生い立ちとは?
山県昌景は享禄2年(1529年)に甲斐国巨摩郡(こまぐん、現在の山梨県西部一帯)で生まれます。
幼名は源四郎です。
父ははっきりとはわかっていませんが、武田信玄の父・武田信虎に仕えていた飯富道悦(おぶどうえつ)の息子・源四郎といわれています。
また、山県昌景はもともとは飯富家の出身で飯富昌景という名でした。
山県昌景のことは江戸時代に書かれた『甲陽軍鑑』という軍学書にかかれていることをもとに現在まで伝わってきています。
山県昌景は兄の飯富虎昌ともに武田信玄に仕えたといわれ、武田信玄による信濃侵攻の際の伊奈攻めが初陣と言われています。
山県昌景の経歴や最後は?
天文21年(1552年)には信濃侵攻の功績によって23歳で150騎を率いる侍大将(一部隊を指揮する者)に任命され、山県昌景の武者ぶりは「源四郎の赴くところ敵なし」と言われましたほどでした。
山県昌景の活躍はさらに続き、永禄6年(1563年)には名を三郎兵衛尉(さぶろうひょうえのじょう)と名乗り、300騎を持つ譜代家老(譜代:昔から仕えていた家)となります。
しかし、永禄8年(1565年)に大事件が起こります。
兄の飯富昌景が武田義信(信玄の嫡男)とともに武田信玄に対して謀反を起こす計画を立てます(義信事件)。
当時、武田信玄は今川領への侵攻を計画していましたが(今川義元が桶狭間の戦いで戦死し今川家が弱体していたため)、嫡男・武田義信の正室が今川義元の娘だったため、義信は謀反の計画を立てました。
また、武田義信の傅役(もりやく)だったのが昌景の兄・飯富虎昌でした。
しかし、この計画は密告によって武田信玄に察知され武田義信と飯富虎昌は捕まり、義信は幽閉された後に自害し虎昌も自害しました。
武田信玄に密告したのが山県昌景でした。
この義信事件での山県昌景の功績は大きく、名を飯富から武田信虎の時代に断絶していた山県の名跡を継ぐことになりました。
これには謀反の罪に問われた飯富家の出身であった昌景に対して、哀れに思った武田信玄が
名を変えさせたとも言われています。
さらに、兄・飯富虎昌が率いていた赤備え部隊(鎧を朱色で統一した部隊)を引き継ぎました。
この事件に以降、山県昌景は武田信玄の重臣として活躍し、永禄12年(1569年)には駿河国の江尻城城代に任じられました。
※城代とは城主の代わりに城を管理した者
今川氏を滅ぼした武田信玄は上洛のため元亀2年(1571年)から徳川家康の支配国であった遠江と三河に侵攻します。
山県昌景は武田別働隊を率いて三河の柿本城や遠江の井平城を落とします。
そして、同年12月22日の三方ヶ原の戦いでは徳川軍を圧倒しました。
ところが、元亀4年(1573年)4月に主君の武田信玄が亡くなってしまいます。
山県昌景は武田信玄の遺言であった「勝頼を補佐してくれ」を守り、武田家への忠誠は変わらず武田家の重鎮として勝頼を補佐します。
しかし、武田勝頼や勝頼側近の跡部氏・長坂氏と話が合わず、山県昌景をはじめとする武田四天王は疎んじられていきます。
そんな中、武田勝頼は父・武田信玄の目標であった上洛を成し遂げるべく徳川に寝返っていた奥平氏が籠もる長篠城(愛知県新城市長篠)へ進軍し包囲します。
長篠城を囲んでいた武田軍でしたが、徳川家康と織田信長が援軍を率いて長篠城の手前にある設楽原へ着陣します。
この時、山県昌景は撤退を主張しましたが武田勝頼は決戦することを選びます。
そして天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、騎馬隊を率いた山県昌景は勝頼の命令で突撃しますが、織田・徳川連合軍の鉄砲隊と馬防柵の前に武田軍兵士は次々と戦死していきます。
この状況に武田軍は撤退を開始しますが、山県昌景は撤退中に敵の追撃部隊によって討ち取られました(享年47)。
その後、武田家は一時は体勢を立て直しましたが、信玄時代からの重臣が長篠の戦いで多く亡くなったことが影響し、天正10年(1582年)に織田信長によって滅ぼされました。
【エピソード】山県昌景の人柄や性格が分かる逸話
山県昌景のエピソード1.兄・飯富虎昌の謀反と武田信玄への忠誠
山県昌景を知るうえで絶対に外せないのが兄・飯富虎昌のことでしょう。
先程も書いたように兄・飯富虎昌は武田義信(信玄の嫡男)の守役であったことから一緒に謀反を企てます。
守役はある意味、第二の父親のような存在で小さい時から側にいました。
当然、守役側から見ても自分が見守ってきた子が次代の当主となれれば、それ以上に嬉しいことはなかったことでしょう。
※ちなみに武田信玄にも板垣信方という守役がいましたが、信玄も信方を父のように思って いました(信玄は父の信虎から嫌われていた)。
そのため、武田義信の意見には賛同し謀反に加わってしまいました。
この謀反は山県昌景の密告によって事前に防がれますが、兄・飯富虎昌は昌景にとっても今までの人生の中ではその存在は大きな影響を与えていました。
飯富虎昌は武田信虎(信玄の父)の時代から武田家の仕え、信虎時代の武田四天王(他に板垣信方・甘利虎泰・小山田昌辰)の一人に数えられていました。
また、武田信玄が父を追放した際には虎昌は信玄側にいました。
兄の武田家への功績によって、その弟の昌景も信玄に目をつけられ登用されたといってもいいでしょう。
そんな兄でしたが、人は立場や役職で変わると言われるように、武田義信を守る立場から信玄への謀反を企ててしまいます。
山県昌景は兄から一緒に謀反を起こそうと誘いを受けましたが、信玄への忠誠は変わらず自ら兄の謀反を信玄に伝えました。
山県昌景は家族ではなく主君を選びました。
山県昌景のエピソード2.疎んじられても変わらない武田家への忠誠
山県昌景は武田信玄の死後も後を継いだ武田勝頼を補佐します。
しかし、勝頼や勝頼側近(跡部勝資や長坂光堅)と意見が合わず政治の中心から遠ざけられてしまいます。
そして、武田信玄の死から2年後の天正3年(1575年)に起きた長篠の戦いで山県昌景は討ち死にしてしまいます。
武田信玄の重臣として活躍してきた山県昌景は、最後は武田勝頼に疎んじられた形で最後を迎えます。
ですが、近年の研究では武田家を再研究する動きが見られています。
理由は現在まで伝わっている武田家に関することは、そのほとんどが『甲陽軍鑑』に書かれていることですが、この書物は江戸時代に書かれた内容で武田信玄を過大評価している箇所が多くあるからです。
また、『甲陽軍鑑』を書いたのは山県昌景と同じ武田四天王の一人であった高坂昌信(別名:春日虎綱)とその親族、さらには昌信の家臣・小幡氏でした。
高坂昌信は長篠の戦いには参戦せず武田四天王で唯一生きていた人物でしたが、勝頼側近の跡部や長坂と対立していたことから、武田家の滅亡は跡部・長坂ら勝頼側近とそれらの意見に賛同した武田勝頼という目線から書かれています。
しかし、当時の史料からは武田勝頼が疎遠となっていた家臣らと関係を修復するために、武田四天王の一人であった内藤昌豊にあてた起請文(きしょうもん、誓約を交わす際にそれを破らないことを神仏に誓った文書)には、「今までは疎遠であったが、今後忠誠を尽くすなら疎んじない」と書かれています。
このことから、武田勝頼は家臣と疎遠になっていたことを理解し、さらに気を使っているようにも見えます。
これは意見が合わない家臣でも信玄時代のように重用するという勝頼の姿勢の表れでしょう。
山県昌景も勝頼の姿勢に答えるかたちで、天正2年には武田勝頼による美濃侵攻では明智城を攻め、援軍に来た織田信長の援軍3万をわずか6千ほどで撃破する活躍をします。
これから見ても山県昌景は武田勝頼に対して忠誠を誓っていたといえます。
さらに、武田家は昔から戦では重臣が戦死するという傾向が見られます。
- 天文17年(1548年)の上田原の戦いでは武田信玄の守役・板垣信方
- 天文19年(1550年)の砥石崩れでは重臣の横田高松(殿軍)
- 永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは信玄の弟・武田信繁
そして、長篠の戦いでの山県昌景・馬場信房・内藤昌豊らの重臣達が戦死します。
これを見る限り、重臣が前線で戦って戦死するのは、それだけ主君との信頼関係があったからであり、山県昌景の戦死は武田家への大きな忠誠があったからでしょう。
まとめ 山県昌景はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで山県昌景について紹介してきましがいかがでしたか。
まとめてみると
- 山県昌景は武田信玄の家臣だった
- 山県昌景は武田四天王の一人だった
- 山県昌景は兄の謀反を信玄に密告した
- 山県昌景は武田信玄の死後武田勝頼に仕えた
- 山県昌景は長篠の戦いで戦死した
大河ドラマでは
- 俳優の篠田三郎さんが演じた『武田信玄』1998年
- 俳優の前川泰之さんが演じた『風林火山』2007年
- 俳優の山本龍二さんが演じた『おんな城主 直虎』2017年
映画では
- 俳優の大滝秀治さんが演じた『影武者』1980年
があります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
以上、「山県昌景の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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