現在放送中の朝ドラ「なつぞら」は広瀬すずさん演じる奥原なつが女性アニメーターを目指すといった物語です。
時代は戦後の昭和。この時代はまだ共働きが一般的ではない時代でした。
またまだこの時代はアニメ文化は発展しておらず、アニメーションの草創期とされています。
主人公・なつのモデルとなった人物はアニメーター・版画作家である奥山玲子とされていますが、一体、奥山玲子という女性はどのような生涯を送っていたのでしょうか。
今回は奥山玲子の生い立ちや経歴、逸話などをご紹介いたします!
奥山玲子の生い立ち
昭和11年(1936年)10月26日、奥山玲子は宮城県仙台市で誕生します。
玲子の父は教師をしていたとされ、母は伊達藩の家老の次男の娘でした。
玲子の幼少期などは分かっていませんが宮城学院高等学校を卒業後、父と同じく教師になるため東北大学教育学部に入学します。
卒業後は外国語大学に入学するため上京します。
しかし、教師になるという夢は父が決めたことであったため、教師になりたくないと思い教師になるという夢を諦めます。
朝ドラ「なつぞら」との違い
朝ドラ「なつぞら」で広瀬すずさんが演じるなつは、奥山玲子がモデルとされています。
しかし、「なつぞら」に登場するなつと奥山玲子にはさまざまな違いがあります。
- 奥山玲子は生まれも育ちも宮城県仙台市だが、なつは東京の新橋で生まれ、その後北海道の十勝で育てられる
- 奥山玲子は教師になるため東北大学教育学部に入学したが、なつは酪農を学ぶため農学校に入学
- 奥山玲子は外国語大学に入学するため上京したが、なつはアニメーターに憧れ上京する
など他にも多くの違いがあります。
東映動画でアルバイトとして働き始め、その後就職
上京した玲子は外国語大学の入学までの間、アルバイトとして東映動画で働きました。
もともと絵を描くことが好きだったためだとされています。
外国語大学に入学するため上京した玲子でしたが、東映動画で働く間に技術を身に着けるようになり、映画造りの楽しさを感じるようになります。
そしてついに外国語大学の受験を取りやめ、昭和32年(1957年)玲子は東映動画に就職するのでした。
数々のアニメーション作品に参加
東映動画に就職した玲子は、日本初のカラーアニメである『白蛇伝』の制作に参加します。
『白蛇伝』
By 京浜にけ – 美術著作物の題号:「ねりまアニメ年表」(白蛇伝)
その後もアニメーターとして頭角を表し数々のアニメーション動画の制作に携わりました。
またテレビアニメーション作品の制作にも積極的に参加していたとされ
- 『狼少年ケン』
By 京浜にけ – 美術著作物の題号:「ねりまアニメ年表」(狼少年ケン)
- 『魔法使いサリー』
By 京浜にけ – 美術著作物の題号:「ねりまアニメ年表」(魔法使いサリー)
- 『ひみつのアッコちゃん』
By 京浜にけ – 美術著作物の題号:「ねりまアニメ年表」(ひみつのアッコちゃん)
の作画監督を務めました。
玲子がアニメーション動画の制作に関わったこの時期はまだ、アニメーション動画やテレビアニメーション作品はまだ発展段階でした。
そのため奥山玲子は後に草創期の日本のアニメーション界を支えた女性アニメーターとして知られるようになります。
結婚か仕事か
玲子がアニメーターとして働いていた時代は、まだ女性が家庭と仕事を両立するといった時代ではありませんでした。
今でこそ共働き家庭が多くなりましたが、玲子がアニメーターとして活躍していた戦後の昭和は、共働きがあまり認められておらず、女性は結婚と同時に仕事を辞めるといった選択が一般的でした。
中には仕事を選ぶといった人も多くいましたが、出世と引き換えに結婚を諦めなければいけませんでした。
そんな中で玲子は同僚であった小田部洋一と昭和38年(1963年)7月7日に結婚します。
夫・小田部洋一が解雇を言い渡される
主産後も職場復帰を果たした玲子でしたが、育児と仕事の両立は非常に難しいものでした。
今でこそ、育児と仕事の両立で悩みを抱える女性や男性は多いかと思います。
玲子と小田部洋一は、どちらも運転免許証を持っていませんでした。
しかし、子供を保育園に送迎するためには車が必要です。
そのため、夫である小田部洋一は運転免許を取得するため教習所に通うこととなりました。
しかし、勤務時間中にも通っていたため、東映動画から「職場離脱」として批判されます。
勤務中に教習所に通っていたのですから小田部洋一が悪いのですが、当時、東映動画では勤務中に教習所に通うことは普通でした。許されていたことなのです。
しかし職場離脱として批判され、また「妻である玲子が結婚後も働き続けるという選択」をしたということも批判されるようになりました。
東映動画は玲子に対し、正社員として働くのではなく契約社員として働くよう打診します。
しかし、玲子はこの打診を拒否したのです。
もちろん小田部洋一は「勤務中に教習所に通うことはみんなやっていることだ」と東映動画に反論しますが、受け入れてもらえず、とうとう東映動画から解雇通告を受けることとなりました。
高畑勲と宮崎駿と共に、夫の解雇撤回を要求
当時、東映動画にも労働組合がありましたが労働組合はこの問題に対し積極的に取り組もうとはしませんでした。
しかし、玲子は「共働きに対する攻撃だから、真面目に向き合ってほしい」と訴え、労働組合とともに、小田部洋一の解雇撤回を要求します。
この際、労働組合で活動していた高畑勲と宮崎駿も玲子とともに小田部洋一の解雇撤回運動を行いました。
しかし結局、夫である小田部洋一は東映動画を辞めることとなったのですが、その後、様々な制作会社を経てズイヨー映像に入社しました。
東映動画を退職
玲子は昭和51年(1976年)東映動画を退職します。
その後、夫の小田部洋一に招かれてズイヨー映像に入社しました。
ズイヨー映像に入社した玲子は作画監督補佐として『母をたずねて三千里』の制作に携わった後、再び退職します。
フリーとなった玲子は夫とともに共同の筆名「あんていろーぷ」名義で『龍の子太郎』などの制作に携わります。
それと同時に東京デザイナー学院アニメーション科で講師を務めるなど、アニメーターの育成に力を注ぎました。
「火垂るの墓」の制作に携わる
昭和63年(1988年)に放送された高畑勲による『火垂るの墓』の制作に携わったのを最後に玲子は、アニメーターから引退しました。
By Studio Ghibli – http://blog-imgs-26.fc2.com/y/a/m/yama34649/hotaru.jpg, パブリック・ドメイン, Link
その後、岡本忠成の短編アニメ『注文の多い料理店』の制作に参加したのをきっかけに、版画でのアニメ動画の制作に興味を持ち始め、1990年以降は銅版画作家として活動し始めます。
奥山玲子の最期
平成19年(2007年)5月6日、奥山玲子は70歳で肺炎によって亡くなりました。
おしゃれだった奥山玲子
まだ放送されていませんが朝ドラ「なつぞら」に登場するなつは東映動画に出勤する際、いつも服装が違います。
毎日、服装が被らないように工夫していました。
なつが仕事の時でもオシャレに気を遣っていたのは、モデルの奥山玲子も同じだったとされています。
まとめ:朝ドラ「なつぞら」なつのモデルは草創期の日本のアニメーション界を支えた女性アニメーター・奥山玲子
朝ドラ「なつぞら」なつのモデルとされる奥山玲子の生い立ちや経歴をご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 生まれも育ちも宮城県仙台市
- 外国語大学に行くため上京するも、アルバイトとして働いていた東映動画に就職
- 夫・小田部洋一は朝ドラ「なつぞら」のアニメーション時代考証を担当している人物
- 結婚と同時に退職が当たり前の時代で共働きを選択
- 高畑勲と宮崎駿と共に、夫の解雇撤回を要求した
- 70歳で肺炎で亡くなる
奥山玲子は、草創期の日本のアニメーション界を支えた女性アニメーターでした。
現代でも結婚か仕事か、また育児と仕事の両立に悩む女性は多いかと思います。
結婚を選択すれば退職を余儀なくされる、子育てに集中すればこれまでのキャリアが台無しになるなど、昭和の時代でも同じような悩みはたくさんありました。
今でこそ、育休が認められ仕事と家庭の両立がしやすい時代となりましたが、まだまだ問題は多く残されています。
結婚と同時に退職が余儀なくされる時代で、共働きを選んだ奥山玲子に共感する人はたくさんいるかと思います。
現在放送中の朝ドラ「なつぞら」では、仕事を選ぶか。それとも結婚を選ぶか。どの女性でも直面するであろう問題に葛藤を抱くなつが描かれていますよ。
またこのような問題だけではなく、アニメーターとして活躍する姿も描かれています。
現在放送中の朝ドラ「なつぞら」は特に働く女性におススメしたい作品だと感じます。
これを機に奥山玲子に興味を持った方はぜひ、朝ドラ「なつぞら」を見てみてくださいね!
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