あなたは安土桃山時代に活躍した甲斐姫と呼ばれる女性をご存知でしょうか?
豊臣秀吉の側室でもあり、優れた武芸を持ち、とても美人であったとされ「東国無双の美人」と呼ばれていました。
このことから、ゲームの戦国無双シリーズでは美人かつ強いキャラクターとして登場していますが、甲斐姫は実際、どれほど美人だったのでしょうか。
そこで今回は、そんな甲斐姫の
- 生涯
- 結婚
- 性格
- 美人とされる容姿
についてご紹介いたします。
これを読めば、美人とされた甲斐姫の生涯や結婚、性格などが分かりますよ。
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甲斐姫の生い立ちとは?
甲斐姫は現在の埼玉県にあったとされる忍城城主・成田氏長と、その正室であった上野国金山城城主・由良成繁の娘との間に誕生しました。
元亀3年(1572年)頃に誕生したとされていますが、明確な誕生年は分かっていません。
しかし、甲斐姫が2歳の時に天正元年(1573年)
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父方の成田氏と母方の由良氏の関係が悪化したため、父・成田氏長と母・由良成繁の娘は離婚となり、
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甲斐姫も母・由良成繁の娘とは離別となってしまいます。
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その後、父・成田氏長の再婚相手であった太田資正の娘によって育てられました。
父の再婚相手である、太田資正の娘には巻姫、敦姫と呼ばれる娘がいましたが、甲斐姫はその娘たちと、とても仲が良かったとされています。
甲斐姫の生涯と結婚相手の夫
こうして、再婚相手の太田資正の娘の下で育った甲斐姫は、
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19歳の頃、その美しい容姿から「東国無双の美人」と呼ばれるようになりました。
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また美しいだけではなく、軍事や武芸に興味を持っていたため、男子であれば、天下に名を轟かせる人物になっていた。とも言われるようになります。
忍成城の戦いに参加、敵武将を討つ
天正18年(1590年)6月4日、豊臣秀吉の小田原征伐の際、甲斐姫の実家である成田氏の本拠であった成田城も、侵攻されます。
石田三成率いる約2万3千人もの豊臣軍の大軍が500人ほどの兵と、3,000人程度の民が籠る忍城に攻めてきました。
戦力は
- 豊臣軍 2〜5万
- 成田軍 2000〜2100
と圧倒的に豊臣軍の方が多くありましたが、
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忍城の周囲には元荒川、星川があり、湿地を活かし築城されていた
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城に籠っていた城代の成田泰季が率いる成田軍の士気は非常に高かったため、豊臣軍の城攻めは困難となっていた
しかし城代の成田泰季が戦中に、発熱を起こし亡くなります。
この際、成田泰季は自身の嫡男・成田長親を代わりに城代とするよう遺言を残したため、
甲斐姫と成田泰季の正室は、嫡男の成田長親を総大将として任命しました。
豊臣軍は、成城の城攻めに難航していたため、忍城を水没させることを目的とした水攻めの戦法を採用しました。
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忍城は、荒川と利根川から水を引き入れられたため堤内は浸水してしまいます。
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また浅野長政が豊臣軍の援軍として、駆け付け、忍城に攻撃を仕掛けてきました。
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浅野長政が忍城の本丸まで、迫ってきたと総大将の成田長親に報告されると、成田長親は自ら浅野長政の討伐に向け出陣しようとします。
しかし、甲斐姫は総大将である、成田長親の出陣を止め、甲斐姫自ら甲冑を身に着け、
成田家に代々伝わっていた名刀「浪切」を持ち、200余騎を率いて浅野長政軍に向け出陣しました。
こうして佐間口を守備していた正木利英の援軍もあって、甲斐姫は浅野長政の軍勢の侵入を阻止することに成功します。
7月5日になると忍城の
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下忍口から石田・佐竹勢
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持田口から浅野・長束勢
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佐間口から大谷・宇都宮勢
と、三方を同時に豊臣軍が攻めてきました。
特に持田口では浅野長政、真田昌幸、真田信繁によって激しい戦闘が繰り広げられます。
真田昌幸の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い
真田昌幸、真田信繁率いる真田の兵によって忍城の出城は攻め落とされ、また持田口も攻め破られたため、甲斐姫は200余騎を率いて本丸から出陣し持田口で行われている戦闘に加勢しました。
この戦闘の際、甲斐姫は敵武将の三宅高繁を弓矢で討ち取ったとされています。
同年の7月6日に、北条氏の総大将であった北条氏直が豊臣秀吉に降伏宣言したため、
北条氏の居城であった小田原城は豊臣秀吉に受け渡されました。
しかし、北条氏が降伏宣言した後も、忍城では成田勢が籠城を続けていたため、豊臣秀吉は、忍城の忍城開城を命じます。
これを受け、城代の成田長親は忍城を開城し受け渡しが行われました。
この開城の際、甲斐姫は甲冑を身に着け馬にまたがり、奥方や巻姫、敦姫と共に忍城を後にしたとされています。
謀反を起こした浜田兄弟を討ち取る
成田城の戦いの後、豊臣氏に抵抗していた成田家は蒲生氏郷のもとに預けられます。
その後、蒲生氏郷が陸奥国会津に移った際は、成田家も共に陸奥国会津に向かいました。
陸奥国会津で発生した葛西大崎一揆には蒲生頼郷に加勢するため、父・成田氏長は家臣を率いて出陣します。
父・成田氏長が葛西大崎一揆に加勢するため留守にしていた際、家臣であった浜田将監とその弟・浜田十左衛門が福井城で成田家の家臣や、父・成田氏長の妻を殺害するといった謀反を起こしました
このことを知った甲斐姫は浜田兄弟に対して怒り、200余人の兵力を持つ浜田十左衛門に対し、10数人の兵力で出陣し、浜田十左衛門を討ち取ります。
この浜田兄弟の謀反を知った父・成田氏長が福井城へと向かい、蒲生頼郷の援軍とともに、浜田将監が籠城する福井城を包囲しました。
浜田将監は福井城からの脱出を試みますが、待ち伏せをしていた甲斐姫によって右腕を切り落とされてしまします。
その後、浜田将監は生け捕りとされ斬首の刑に処せられました。
豊臣秀吉の側室となる
この甲斐姫の活躍を耳にした豊臣秀吉は、甲斐姫を気に入り、側室として迎え入れました。
豊臣秀吉の側室となった甲斐姫の大阪城での生活については明確な史料は残されていません。
しかし、慶長3年(1598)3月に行われた醍醐の花見の際に詠んだとされる和歌が残されています。
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)8月に亡くなると、その後の甲斐姫の足取りは残されておらず、不明となっています。
しかし、一説によると
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秀吉の息子・豊臣秀頼の養育係を務めた
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忍者と同じ役割であった隠密を務めた
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秀吉の息子・豊臣秀頼とその側室の間に誕生した、天秀尼の養育係を務めた後、東慶寺に入った
とされています。
甲斐姫の晩年の記録は残されてないため、甲斐姫が何歳で亡くなったのか、いつ亡くなったのかなども分かっていません。
【エピソード】甲斐姫の性格が分かる逸話
甲斐姫は、城主の娘でありながら、美人かつ武芸の才能を持つ女性であったとされてます。
忍成の戦いの際、甲斐姫は自ら鎧兜を身に着け、名刀の「浪切」を備え、
浅野長政の軍勢の侵攻を阻止し、また敵将の三宅高繁を弓矢で討ち取りました。
また家臣の浜田兄弟が謀反を起こした際は、浜田十左衛門を討ち取り、
福井城から脱出を試みる浜田将監の右腕を斬り落とすといった記録が残されています。
このことから、甲斐姫は男勝りな性格で、とても強い女性であった事がわかります。
【史実】甲斐姫は実在の美人でかわいいのは本当?
甲斐姫は「東国無双の美人」と呼ばれるほどの美しい容姿をした女性とされています。
しかし、甲斐姫が美人かつ強い女性であった。と記されるようになったのは、甲斐姫が亡くなってから『成田記』や『真書太閤記』に記されるようになったので本当に美人であったのか。また、強い女性であったのかは、疑問視されています。
また、甲斐姫が実在していた。と確認できる詳細な史料も残されていないため、甲斐姫が実在した女性であったのかも疑問視されます。
実在した女性なのかも疑問視されるほど、史料の少ない女性であり、肖像画も残されていないため、美人であったのかは分かっていません。
個人的な希望として、できれば強くてとっても美しいお姫様であってほしいものです。
まとめ 甲斐姫はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
以上、甲斐姫の生涯や、結婚、性格についてのご紹介でした。
甲斐姫について簡単にまとめると
- 忍城城主・成田氏長の娘として誕生する
- 忍城の戦いに参加する
- 謀反を起こした浜田兄弟を討ち取る
- 豊臣秀吉の側室となる
- 秀吉亡き後、甲斐姫の消息は途絶える
- 「東国無双の美人」と呼ばれるほど美人で強い女性であったが、史料が少ないため疑問視される
甲斐姫は、美人かつ強い女性とされてきた女性でした。
しかし、史料が少ないことから、実際に美人であったかどうか、また強い女性であったかは不明とされています。
謎の多い女性であったことは間違いないようです。
そんな、甲斐姫を題材とした有名な映画として
- 「のぼうの城」
があげられます。
この映画では
- 甲斐姫を榮倉奈々さん
- 成田長親を野村萬斎さん
- 豊臣秀吉を市村正親さん
などが演じられました。
美人かつ強い女性とされた甲斐姫を演じられた女優の榮倉奈々さんは、甲斐姫役にピッタリの女優さんではないでしょうか。
これを機に、甲斐姫に興味を持った方はぜひ「のぼうの城」を見てみてください。
以上「甲斐姫の性格と生涯、結婚のエピソード、美人とされる容姿」のご紹介でした。
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