はじめに
歴史に詳しくない人でも関羽を知らない人はほとんどいないと思います。 三国志に登場する武将の中で屈指の人気を誇り、知名度もずば抜けているからです。
関羽と張飛が劉備と義理の兄弟になる「桃園の誓い」は三国志をベースにした小説の三国志演義の序盤のハイライトシーンですね。 その人気を反映してか、人気ゲームの「三国無双」では全シリーズに登場しておりますし、その他三国志を舞台にしたゲームや漫画でも登場しないものはありません。
さらに関羽は死後神格化されて、中国各地や日本の中華街で祀られて言います。 このことも関羽の知名度が高い理由の一つです。
しかし、三国志演技やゲームの印象が強いためか関羽の実際の生涯やエピソードはよくわからない、と言う人もいるのではないでしょうか? 三国志演義は史実をベースにした小説ですが、あくまで小説です。実際の関羽はどのような生涯を送ったのでしょうか?
また、数多くの逸話の中でどれが実際の関羽のエピソードなのでしょうか?
今回は物語の登場人物ではなく、歴史上の人物としての関羽の生涯となぜ彼が神格化されたのかを紹介いたします。
劉備との出会い
関羽の生年ははっきりとわかっていません。 生まれは中国最大の塩湖である「解池」の近くであり、塩の密売に関わっていたという説もあります。
また、暴利をむさぼる塩の商人を殺したとも言われています。 いずれにしろ、関羽が歴史に姿を現すのは黄巾の乱発生後の劉備が暮らしていた幽州においてでした。
黄巾の乱は各地で猛威をふるい、官軍だけでは鎮圧が難しくなっていたため、漢王朝は義勇軍の結成を呼びかけました。
劉備はこの要請にこたえて兵を挙げたのです。 関羽は弟分である張飛とともに劉備に仕えることになりました。
関羽が歴史に登場した瞬間です。
小説「三国志演義」では義兄弟の契りを結ぶ「桃園の誓い」が描かれていますが、こちらは史実ではなく小説を盛り上げるための演出になります。
義兄弟の契りをしたわけではありませんが、関羽と張飛は劉備を兄のように慕っていたようです。 義勇軍では劉備の指揮の元で武勇を活かして活躍したことが考えられます。 ただし、三国志演技のように黄巾軍の名のある将を次々打ち取ったという記録はありません。
劉備は黄巾の乱鎮圧後には功によって現在の河北省にある中山国の尉(警察署長)のポストなどを与えられますが、役人ともめるなどして逃亡者となります。
その後、学友であった公孫瓚の元に身を寄せることになりました。公孫瓚は当時、中郎将という将軍のポストについておりましたので彼の推薦により劉備は行政のポストを得ます。
関羽は黄巾の乱以降もずっと劉備につき従っています。劉備は順調に出世をしたわけではなかったので、配下の武将も決して楽ではなかったことが考えられます。
このことから関羽が忠義で付き従っていたということがわかりますね。
曹操の賓客に
(曹操)
劉備はその後も各地を転々とします。 三国志屈指の猛将である呂布と戦ったり、三国志の主役の一人である曹操の元に身を寄せたりしました。 そして紆余曲折を経て徐州(現在の山東省と江蘇省の一部)を手に入れます。
劉備は関羽に徐州内の下邳城と自らの妻子を任せます。 いかに劉備が関羽を信頼していたかがわかる措置です。
しかし、劉備は曹操と対立することになり、曹操軍の大軍の前に敗走します。 劉備は河北を支配していた袁紹の元に逃げ延びました。
一方で関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われてしまいます。 関羽と劉備はここで一旦別れることになりました。
囚われた、と言っても曹操は関羽の武勇や忠義を高く評価していたので、関羽は賓客として遇されました。
将軍としては最下級な位であるものの、編将軍という称号も与えられているので曹操の関羽に対する厚遇がわかります。
さらに曹操は敵である劉備の妻子までも丁寧にもてなしたので、関羽は曹操という人物の度量を学ぶことになりました。
このころ、中国で最大の勢力を持っていたのは劉備が身を寄せた袁紹でした。曹操は覇権をかけてこの袁紹に戦いを挑みます。
くしくも劉備と関羽は敵味方に別れることになったのです。曹操と袁紹の戦いは三国志最大の戦いの1つである官渡の戦いです。
関羽はこの戦いの中で袁紹軍の猛将「顔良」を討ち取る戦功をたてます。
三国志演技ではもう一人の猛将「文醜」も関羽が討ち取ったことになっていますが、こちらは史実ではありません。
ただ、顔良は袁紹軍を代表する武将だったので、これを討ち取った関羽の武勇は並外れていたことがわかります。
関羽の活躍もあり曹操軍は袁紹軍を撃破します。 この戦いの勝利で曹操の覇権は決定的となりました。
関羽は戦功を評価され漢寿亭候に封じられます。
再び劉備と合流
曹操は関羽を高く評価していましたが、劉備がいるかぎりいつかは自分の元を去ることがわかっていました。
なんとか関羽を引きとめるためにたくさんの恩賞を与えようとしましたが、劉備への忠義が厚い関羽は受け取りませんでした。
曹操は関羽の忠義心に感心したと伝えられています。 関羽は曹操に別れの手紙を書き、劉備の妻子と共に曹操の元を旅立ちます。
曹操の部下は関羽の追撃を進言しましたが、曹操は関羽の義を重んじ関羽を行かせます。
曹操の英雄たるところを示すエピソードと言えますね。
歴史に「IF」はありませんが、曹操と関羽はお互いを高く評価していたので劉備がいなければ関羽が曹操に仕える、という可能性もあったかもしれません。
関羽は袁紹の元にいた劉備の元にたどり着きます。 主従は再び出会えたのです。
その後、劉備は袁紹の元を去り荊州の劉表の元を訪れます。 関羽もちろん同行しています。
やがて劉表が死去すると三国志の見せ場の一つで映画「レッドクリフ」でも描かれた赤壁の戦いがおこります。
曹操が天下を一気に手に入れるために大軍で攻めよせて来たのです。 劉備は江南を支配する孫権と同盟を結び、戦いを挑みます。
戦いは呉の武将周瑜などの活躍もあり孫権、劉備の連合軍が勝利します。 曹操は大軍を失い敗走します。
この戦いの後、劉備は荊州に勢力を伸ばし、さらに益州までも手に入れます。
こうして華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備と天下が三分されることになったのです。
荊州の総督として孫権と衝突 そして死
関羽は劉備の益州遠征に同行をせず、荊州の守りを任されました。
荊州はいわば劉備にとっての本拠地だったので、留守を任せたということはいかに関羽を信頼していたかがわかります。
劉備が益州を征服した後に関羽はこれまでの功績が評価され、荊州の総督に任命をされました。
しかし荊州をめぐっては赤壁の戦いで共に戦った呉と争うことになります。
劉備が荊州だけでなく、益州までも手に入れると孫権は劉備の勢力拡大を警戒しました。 孫権は赤壁の勝利は呉のものと考えており、荊州も呉が治めるべきと考えていました。
そこで呉と関羽軍の衝突が起こりましたが、曹操軍の侵攻で和平となり荊州は呉と蜀で分割されることになりました。
この和睦は呉の魯粛の活躍で呉に有利な内容となっておりました。 とはいえ、魯粛は曹操に対抗するためには劉備との連携が必要と理解していたので関羽の排除までは考えていませんでした。
しかし、魯粛の死後、軍を率いることになった呂蒙は荊州から劉備軍の排除を考えている武将でした。
そのため、呂蒙は荊州に侵攻する機会を窺っていましたが、関羽の荊州統治は順調でうかつに手を出すことはできませんでした。
関羽が武将としてだけでなく行政官としてもすぐれた手腕を持っていたことがわかります。
孫権は関羽との連携のために関羽の娘と自分の子どもの婚姻を持ちかけますが、関羽はこれを断わります。孫権はこれに怒り、関羽の排除に傾いていきます。
これが関羽の死の原因となりました。
三国志演技で関羽は「虎の娘(自分の娘)を狗の子(孫権の息子)にやれるか」と言って断りますが、さすがにこれは創作です。
とはいえ、強大な魏に対抗するためには蜀と呉は手を結ぶ必要があったので呉を怒らすことが関羽にとって得策でなかったことは確かです。
関羽の備えとして曹操は信頼する武将「曹仁」を荊州の押さえとして樊城に配していました。関羽が樊城に攻撃を開始(樊城の戦い)すると曹操は3万の兵を援軍に送ります。
しかし悪天候のよる洪水で援軍は壊滅し、樊城も陥落寸前になります。 曹操は焦りますが、孫権との連携で乗り切ろうとします。
関羽に婚姻を断られていた怒りもあって、孫権は出兵を決意します。
一転、魏軍と呉軍の挟み撃ちになった関羽軍の士気は低下し崩壊状態となりました。呉軍に退路を断たれた関羽はやむなく降伏します。
関羽は呉への服従を迫られましたが、最後まで劉備への忠義を貫き斬首されてしまいます。
関羽の敗因は孫権との連携を軽視したことでした。
関羽の首は曹操の元へ送られ、孫権と曹操はともに関羽を手厚く葬りました。関羽が敵国にも尊敬されていたことがわかります。
関羽の死の影響は大きいものでした。 劉備は関羽の死を嘆き、報復として呉に戦いを挑みます。
しかし、呉の武将である陸遜の計略により大敗してしまいます。この敗戦の心労のためか病気にかかり、そのまま死去します。
関羽の死が219年、劉備は4年後に223年に死去します。張飛も221年に部下に殺されているので3人はほぼ同時期に亡くなったことになります。
三国志の人気登場人物である関羽は小説やゲームで描かれているような人間離れした武将ではありませんでした。
ただし、個人的な武勇はもちろんのこと、将軍としてもすぐれた人物でした。 また、行政官としての能力も高く、詩を吟じるなど武辺だけではない人物でもありました。
小説やゲームでは武将としての面がフォーカスされがちなので、史実の方が幅広い魅力を持つ人物と言えるかもしれません。
死後は信仰の対象に
現在、関羽は「関聖帝君(関帝)」と呼ばれ道教の神として祭られています。
道教は中国で広く信仰される宗教で古代中国の老荘思想が源と言われています。
関羽は主に商売の神として信仰を集めています。 三国志の時代を生きた武将である関羽がなぜ商売の神様になっているのでしょうか?
関羽の死後の神格化の動きを紹介していきます。
関羽は死後、すぐに神格化されたわけではありません。 死後、数百年たった唐の時代に神として祭られます。
このときは仏教の力が強かった唐の時代を反映して仏教の神でした。 関羽は伽藍神(伽藍菩薩)として祭られました。
この時点では数多くいる神の中の一人に過ぎませんでした。
関羽の神としての地位が高まるのはさらに時代が下った宋の時代です。
宋は北方の異民族の侵略に苦しめられていたので、関羽は道教の武神として崇拝されたのです。
忠義に生きた関羽は権力者にも受けがよく、宋の時代以降は歴代の皇帝から神号を与えられるようにもなりました。
宋の時代には三国志の物語が身近になっていたことも関羽の人気が高まった理由の一つです。
関羽に対する信仰が普及したファクターとしては山西商人の存在も外せません。
関羽は山西省出身という説もあり、そのためか山西商人の守護神として崇拝されるようになりました。
山西商人は宋の時代には塩の流通に担うことで大きな勢力を持っていました。 彼らにとっての関羽は武神ではなく、商売の神様「財神」だったのです。
宋が滅んだ後も山西商人は勢力を拡大して、明の時代には新安商人と並ぶ2大商業勢力に成長します。
山西商人の勢力が伸びるに従って、彼らの守護神である関羽の信仰も拡大しました。
さらに明の次の清の時代には関羽は全能の神となります。 関羽は古代中国の思想家である「孔子」と並ぶ国家の最高神となったのです。
皇帝の命令により関羽を祭る関帝廟は武廟と呼ばれるようになります。 武廟は中国全土に作られ、広く信仰を集めることになりました。
現在、武廟は中国だけでなく世界各地に広がっており、関羽は神として世界各地で人々に参拝されています。
終わりに
三国志で屈指の人気を誇る関羽、小説「三国志演義」のイメージが強いですが、史実でも傑出した武勇を誇る人物でした。
さらに、芸術の解し、行政官としてもすぐれた手腕を持つ多彩な人物でもありました。
その後は神格化され、山西商人の守護神になったことで中国全土に信仰が広がりました。
神としては孔子と並ぶ中国の最高神となります。現在は中国にとどまらず、世界各地で信仰の対象となっています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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