250年以上続いた江戸時代の終わり、幕府のために奮闘した勝海舟を知っていますか?
大河ドラマ「龍馬伝」や「せごどん」など、幕末動乱期のドラマにはたいてい登場する人物です。
「せごどん」では、遠藤憲一さんが、「龍馬伝」では、武田鉄矢さんが演じていました。
今回は、その勝海舟について
- 勝海舟の生い立ちや家族は?
- 勝海舟の経歴やエビソードから見える性格は?
- 勝海舟の逸話や名言からわかる人物像とは?
を紹介します。
こちらを読めば、あなたも勝海舟の経歴や功績、性格や人となりがわかります。
幕末の歴史もまた違った見え方がして、面白くなります。
ぜひご覧ください。
遅ればせながら録画した西郷どん観ました❗
龍馬伝の福山さんと武田鉄矢の龍馬と勝海舟も良かったけど、今回の小栗旬とエンケンさんの龍馬と勝海舟もすごく良いですね✨
面白くなってきたなぁ(*^-^*) #西郷どん pic.twitter.com/QltyvGG54O— あんころ (@an_an_ankoro) 2018年7月16日
勝海舟の生い立ちと家族
勝海舟は、文政6年(1823年)江戸は両国(東京都墨田区亀沢)で生まれました。
父は旗本の小吉、母はお信です。
父の小吉は、旗本男谷彦四郎の三男でしたが、勝家に養子入りし、勝家を継いでいました。
小吉は面白い人で、旗本でありながら、博徒(ばくと)や侠客(きょうかく)とも付き合いがあり、いわゆる顔が利く人でした。
あまり細かいことにこだわらず、人情味にあふれた人だったようで、勝海舟もその影響を受けているところが見えます。
- 文政12年(1829年) 赤坂へ引っ越し
- 天保2年(1831年) 野犬に睾丸をかまれる
勝はこのとき、睾丸を1つ失っています。
ですが、のちに妾を持ったり、子もできていますので、それほど問題はなかったのですね。
ただ生涯、大の犬嫌いでした。
- 天保13年(1842年) オランダ語の勉強を始める
- 弘化4年(1847年) オランダ語の辞書「ドゥーフ・ハルマ」を筆写する
- 嘉永3年(1850年) 蘭学と兵学の塾を開く
- 嘉永6年(1853年) ペリー来航
早くからオランダ語を学び、西洋に目を向けていた勝は、ペリーが来航する前から、西洋の脅威に対する考えを持っていました。
ペリー来航という江戸幕府始まって以来の大騒動に、幕府は広くから意見を募ります。
勝海舟も意見書を出し、非常に注目され幕府のオランダ通訳係に抜擢されます。
貧しい旗本の子でありながら、幕政に参加するまでになったのです。
勝海舟の性格が分かる面白いエピソードとは?
幕府の仕事を始めると勝海舟は今まで温めていた自分の考えを実現させようと奮闘します。
- 安政2年(1855年) 長崎海軍伝習所を創設
自前の海軍を作るため、勝はこの後3年間長崎に滞在します。
その間に薩摩藩藩主島津斉彬(なりあきら)にも拝謁しており、西郷隆盛とも顔見知りになっています。
「せごどん」では、渡辺謙さんが演じていた島津斉彬。
早くから西洋化を進め、非常に先見の明があった斉彬ですが、この3年後に急死します。
もし生きていれば、幕末の様相は全く違ったものになっていたのではないかといわれるほどの人物でした。
島津斉彬のお話は、また今度しましょう。
- 安政6年(1859年) 軍艦操練所の教授方頭取となる
- 安政7年(1860年) 咸臨丸でアメリカへ行く
意気揚々と咸臨丸に乗り込んだ勝でしたが、なんと船に弱かったのです!
それも相当な弱さでした。
日本を出てからアメリカへ着くまでの間、船酔いがひどすぎてほとんど部屋から出てこなかったという話です。
豪快で怖いもの知らずのイメージがある勝海舟も船には弱かったんですね。
ほとんど指揮をとらない勝船長だったくせにアメリカに着くと一人前の船長ぶっていたため、この時期の勝は、あまり評判がよくありませんでした。
船長のくせに船酔いばかりしていた自分が恥ずかしすぎて強がっていたのか、ただ見栄っ張りなのか、子供っぽいところもある人だったんですね。咸臨丸には、あの福沢諭吉も乗っていたのですが、勝のこの態度に、福沢はとても腹を立て、日本に帰ってからも勝海舟とは仲が悪かったのです。
勝海舟のおおらかで豪胆な性格は、見る人によっては、自分勝手で我がままに移ってしまうものです。
龍馬のように勝に心酔する人がいるかと思えば、福沢諭吉のようにとことん嫌う人もいるのですね。
江戸へ帰国した後、勝は海軍の実践方面から教育方面へ移されます。
これは、やはり船酔いが影響したためでしょうね。
文久2年(1862年) 12月、 軍艦奉行となっていた勝海舟のもとへ坂本龍馬が訪れます。
坂本龍馬の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い!
龍馬はその日のうちに、勝海舟の弟子になりました。
坂本龍馬は、姉乙女にあてた手紙に、勝のことを「日本第一の人物」と書いています。
龍馬は、尊敬する勝の弟子として、神戸の「海軍操練所」を開くため、東奔西走しました。
しかし、幕末の動乱の中で徳川、薩摩藩、会津藩、長州藩など大きな勢力の争いになかでは、幕臣の一人でしかない勝海舟は、能力を発揮する場がなくなっていきました。
勝海舟の人物像が分かる面白い逸話とは?
勝海舟が歴史の表舞台に再び登場するのは、慶応3年(1867年)の大政奉還・王政復古の大号令ののち、よく慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が始まってからです。
慶応4年1月3日に鳥羽伏見で始まった戦は、はじめは旧幕府軍が優勢でしたが最新の銃を持ち、勢いに勝っていた薩長軍に次第に押されていきます。
京の都は官軍となった薩長軍に占領され、旧幕府軍はやっとの思いで大阪まで引き上げます。
大阪城には、徳川慶喜(よしのぶ)がいました。
戦の状況を聞き、家臣の勢いに押されるように慶喜は、戦の先頭に立つことを約束しました。
負け戦で落ち込んでいた者たちが沸き立ったその夜、慶喜は、わずかの家臣を連れて大阪城を抜け出し、幕府の軍艦開陽丸で、江戸へ逃げ帰ってしまったのです。
当時軍艦奉行だった勝海舟は仕事らしい仕事もなく、自宅でぶらぶらしていたのですが、突然の登城命令が来ました。
慶喜が江戸へ帰ってきたいきさつを聞いた勝は、「なぜ家来を置いて逃げてきた!」とお殿様である慶喜に詰め寄りました。
「こっちにはまだ無傷の海軍が残っている。大阪城で持ちこたえてくれてれば、軍艦でかけつけたのに。そうすりゃ負けることはないんだ。」
旗本で幕臣の勝は、徳川幕府のてっぺんである将軍が、自分の家来を見捨てて逃げてきたことがよほど腹に据えかねたのでしょう。
主君である慶喜を叱り飛ばしています。
ですが、そんな勝に慶喜は「頼れるのは、もうそち一人だけだ。」主君のこんな言葉は、人情に篤い勝には殺し文句です。
ここから勝の大奔走が始まります。
勝海舟は、陸軍総裁に任命されます。
旧幕府のトップとして、官軍との交渉にあたりました。
西郷隆盛が指揮する官軍は江戸を攻撃し、慶喜の首を取るためにどんどんと進軍してきます。
江戸の人々は、今にも官軍が攻めてくるかとパニックです。
勝は西郷隆盛とはもう話を付けたという旨の高札を立てて、江戸庶民を落ち着かせました。
その裏で、若い時から付き合いのあった博徒や侠客、新門辰五郎たち火消しに協力してもらい、いざというときは江戸の町を焼き払う準備もしていました。
これは、西郷との話し合いの時、駆け引きとして使うための一つの持ち駒、作戦ですね。
- 慶応4年3月13・14日 勝海舟・西郷隆盛の初会談
ここで勝が出した降伏の主な条件は以下のようなものです。
- 徳川慶喜は隠居、水戸で謹慎(処刑はしない)
- 軍艦や武器は、寛大な処分が下りた後にまとめて渡す
- 江戸城内に住んでいる家臣は、別の場所に移り謹慎
- 旧幕府軍として戦った者たちへの寛大な処分
勝海舟の第一の目標は、主君慶喜の命を守ることでした。
主君の首を敵に渡すことは、侍にとって最大の屈辱でしたし慶喜に頼られた勝としては、何がなんでも慶喜を助けたかったのです。
幕臣勝海舟の意地です。
生粋の江戸っ子である勝海舟は、江戸の町を守りたい気持ちも大きかったのです。
もし、官軍が江戸城を攻撃すれば、江戸の町も無事ではすみません。
主君の首も大事ですが、多くの庶民が暮らす江戸の町も大事だったのです。
江戸を焼き払う準備はしていても、それは最後の手段。
もしそうなったら勝も一緒に死ぬつもり、そのくらいの覚悟で、西郷との交渉に臨んでいたのです。
交渉の結果はあなたも知っての通り、慶喜の命は助かり、江戸の町も無事残りました。
勝海舟、一世一代の大仕事が終わりました。
明治になり勝海舟は、新政府に登用されましたが、政府のやり方に反発してすぐにやめています。
勝らしいですね。
その後は、表舞台に立つことはなく、明治政府のご意見番として辛口の意見を進言する程度でした。
たまに13代将軍徳川家定に嫁いだ篤姫(あつひめ:大河ドラマでは宮崎あおいが演じていました)と昔話をしたりと悠々自適の人生を送りました。
明治32年(1899年)勝海舟は、脳出血で倒れました。
死に水かわりに、ブランデーを口に含み、77歳で死去。
最期の言葉は「コレデオシマイ」
最後の最後まで江戸っ子勝海舟を貫いた人生でした。
勝海舟は、多くの言葉を残しています。
それには、勝の生き方、人間性が表れています。
私の独断でいくつか紹介しますね。
- 「行いは己のもの 批判は他人のもの 知ったことではない」
- 「人には余裕というものが無くては、とても大事はできないよ」
- 「自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも 自分で自分を殺すことだけは しちゃいけねぇよ」
- 「敵は多ければ多いほど 面白い」
- 「政治家の秘訣はなにもない ただ【誠心誠意】の四文字ばかりだ」
今の時代でも十分通じる言葉ばかりですね。
最後の言葉なんて、今の政治家みんなにぶつけたいような名言です。
破天荒なところもあった勝海舟ですが、
一番根っこのところには、人情と誠実があった人なのです。
まとめ:勝海舟の経歴や逸話からわかる人物像
今回は勝海舟について紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 勝海舟は旗本として幕府に仕えた人
- 勝海舟は進歩的な考えを持った人
- 勝海舟はおおらかな反面意地っ張りの見栄っ張り
- 勝海舟は誰に対しても自分を飾らず正直
- 勝海舟は江戸の町を守り徳川を守った人
勝海舟は、今の時代の生きていても、全く違和感なく生きていけるくらい柔軟で進歩的な人でした。
総理大臣になってほしい歴史上の人物というアンケートでも必ず上位に入るような能力の高さと誠実さを持った勝海舟。
半面ちょっと子供っぽいところがあるから、今の人たちにも人気があるのです。
今日の記事を最後まで読んでいただいたあなたなら、もう勝海舟の魅力をわかっていると思います。
もっと勝のことを知りたいならこんな本がおすすめです。
- 氷川清話 勝海舟
- 海舟語録 勝海舟
どちらも勝海舟が残した言葉が、気持ちの良い江戸弁で書かれています。
勝海舟の人となりがよくわかる本です。
今日の記事でも参考にしています
- それからの海舟 半藤一利
こちらは、勝の言葉を引用しながら明治期の勝海舟の生きざまを描いた作品です。
明治政府への痛快な批判は勝らしく、とても楽しく読めます。
勝海舟は、幕府側の人間ながら多くの志士たちにも影響を与えた異色の人物です。
その影響力は、いまだに健在なのです。
以上「勝海舟の生い立ちと経歴、エピソードから知る人となり」でした。
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