山之内一豊の妻。内助の功で夫を大名にまでのし上げた女性 千代の人生とは?


(見性院)

内助の功で知られる、千代こと山之内一豊の妻・見性院(けんしょういん)

一豊の母に聡明さを認められ、彼に嫁ぎ、一浪人だった若き日の一豊を影ながら支えました。

天下分け目の関ケ原を彼女の知恵と勇気と共に乗り切った一豊は、最終的に土佐国の高知城主にまで上り詰めました。

彼女の知恵と献身は、「女性は婚家に尽くすもの」とされた明治時代には良妻賢母の見本とされ、2006年放送の大河ドラマ『功名が辻』のモデルにもなりました。

そんな山内一豊の妻・千代の人生と内助の功についてお伝えします。

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見性院の経歴

生い立ち


(岐阜県郡上八幡城にある山之内一豊の妻の像)

山之内一豊の妻・見性院こと千代は1557年に生まれました。

彼女の出自については諸説があり、近江(現在の滋賀県)で生まれたという説や、美濃(現在の岐阜県)で生まれたという説があります。

江戸中期に徳川幕府が編修した大名の家譜集『寛政重修諸家譜』によれば、近江の浅井氏の家臣であった若宮友興の娘とされており、この説が最有力とされています。

一方で、岐阜県郡上市の寺院に所蔵されている系図には、郡上八幡城初代城主である遠藤盛数の娘が山之内一豊に嫁いだという記述があり、こちらの説も有力視されてきています。

岐阜県の郡上八幡城では、山之内一豊の妻生誕の地として大々的にアピールをしています。

 

少女時代

千代が正確にはどこで生まれ、親が誰なのかはわかっていません。

しかし、有力とされている若宮友興の娘であっても、遠藤盛数の娘であっても、千代の少女時代は苦しいものでした。

若宮友興は1566年に戦で討死し、遠藤盛数も1562年に病死しています。

どちらの場合でも、千代は幼いうちに父を亡くしたことになります。

彼女の少女時代は、若宮友興の娘説でも、遠藤盛数の娘説でも、父の死後叔母に引き取られたり、母の再婚があったりして郷里を離れたものの、養家が戦でなくなったり、継父が戦死したりしたため再び各地を放浪することになった等苦労の多い逸話が残されています。

山之内一豊に嫁ぐ


(千代の夫・山之内一豊)

千代の夫となる山之内一豊も若き日は苦労人でした。

織田家の重臣を父に持つ由緒ある武家に生まれがら、わずか13歳で戦により父を亡くし母や兄弟たちと諸国を放浪する浪人の身でした。

一豊と千代の結婚については、諸国を放浪していた一豊が身を寄せた先で千代を見初め、結婚したという話が残されています。

若宮友興の娘説においては、父の死後、親類を頼って各地を転々としていた千代が、主君・浅井長政の計らいで生まれ故郷の近江に戻った時、同じ村に身を寄せていた一豊の母、法秀院に利発さを見初められ、嫁入りが決まったと言われています。

一豊の母は「武将の値打ちは妻の賢さによって決まる」という信条がありました。

二人が結婚した正確な時期は不明ですが、一豊が姉川の戦いで戦功をあげた1570年から1573年の間とされています。

嫁入りの時の千代は、13歳から16歳、一豊は30歳前後だったと推測されます。

このころの一豊は、織田信長配下の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に仕官しており、ようやく武士としての再スタートを切り始めたところで、経済的にはまだまだ苦しいものであったそうです。

千代の子供たち


(千代と一豊の養子の一人・忠義)

千代と一豊の間には、1580年に一女の与祢(よね)が生まれます。

与祢は二人の間に生まれた唯一の実子ですが、1585年の天正大地震によって、わずか6歳で命を落としてしまいます。

与祢の死後、一豊と千代は子供に恵まれませんでした。

当時の武家では、家の存続が何よりも重視され、正室との間に世継ぎが生まれなければ側室を迎えることもありました。

とはいえ、武士の中には側室を迎えず、正室一人と添い遂げる者も少なからずいたようです。

側室を迎えなかった武将はほとんどが一夫一妻を唱えるキリスト教を信仰するキリシタンでした。

一豊はキリシタンではありませんでしたが、彼のように非キリスト教徒で側室を持たなかった武将は珍しく、一豊と千代がおしどり夫婦として後世に語り継がれる所以となっています。

側室は迎えなかった一豊夫妻ですが、捨て子だった男児・を引き取り養育しました。

拾は一豊の隠し子という説もありますが、真偽は定かではありません。

夫妻は拾を後継にしようと考えていたものの、山之内家との血縁がなく、捨て子という出自が家臣たちにも分かっていたため、「身元の分からない捨て子を後継ぎにしては臣下の忠義が得られない」という進言を受け、断念しています。

この背景には、太閤となっていた豊臣秀吉が自分の実子・秀頼に後を継がせるために、すでに関白位を譲っていた甥・秀次を切腹させた事件も関係していると言われています。

山之内家の後継者候補から外された拾は10歳になると京都の妙心寺に預けられ、出家の身となり、修行を積んで湘南宗化(しょうなんそうけ)という僧となりました。

関ケ原合戦のあと、湘南宗化は一豊・千代夫婦から土佐の吸江寺(ぎゅうこうじ)を与えられ、住職となったほか、妙心寺の要職に就くなど高名な僧侶になったのです。

一豊の後を継いだのは、もう一人の養子、山之内忠義です。

忠義は、一豊の弟・康豊の息子で、夫妻の甥にあたります。

一豊が土佐国高知城城主となった際に、後継者として夫妻に迎えられました。

千代は一豊の死後、若くして後を継いだ忠義を気遣い、折に触れて「徳川幕府へ忠義を尽くすように」「高台院(秀吉の妻・おね)への気遣いも忘れないように」と手紙を送っています。

 

内助の功で夫を大名に


(千代が引き取り養育した湘南宗化が修行をした妙心寺)

千代が嫁いだ時、一豊は浪人の身を脱し、ようやく織田家に仕官したところでした。

働き口はあっても、一国一城の主の元に嫁ぐのとは違います。新婚当初の二人の暮らしは楽ではありません。

一豊は戦で目立った活躍はしていなくても優秀な武将でした。頬に矢が刺さり、顔に重傷を負っても敵将の首を打ち取るほど勇敢だったのです。その反面、彼は一本気で融通が利かない性格でした。

千代は持ち前の利発さと女性らしい閃きで、夫を支えます。

嫁入りの際の持参金で夫に馬を買ったり、時には自らの髪を売って一豊の築城監督のための経費を稼いだりしました。

『稿本見性院記』によれば、千代が長浜城にいた時、巻物の切れを縫い合わせて着物を作り秀吉を感心させたこともあったようです。

千代の閃きに感銘を受けた秀吉は千代が巻物で作った着物を聚楽第におき、人々に見せたと言われています。

千代の賢さが表れた有名な話には、「笠の緒文」と言われる話があります。

関ケ原合戦前に徳川家康が行った会津討伐に従軍していた一豊の元に、大坂城で石田三成の人質となっていた千代から文が届きます。

一通は家康に反意を翻すようすすめた石田三成からの書状もう一通は徳川家へ恭順の意を示すよう進言した千代からの書状さらに、「文箱を開封せずに書状を家康まで届けるように」という伝言を書いた文を使者のかぶる笠の緒に仕込んで送り届けたのです。

この千代の機転により、家康は大坂城の内部状況を知ることが出来、さらに未開封の文箱を受け取ったことで一豊の恭順の意を汲んだともいわれています。

当時、一豊は家康のいる東部と三成のいる西部の中間にある掛川城の城主でした。

大坂城で人質となっている千代から「私はどうなってもいいので徳川方に義をつくしてください」と覚悟の言葉を聞いた一豊は、関ケ原合戦に向けて、自分の城と食料を三成討伐のために徳川方の軍に提供する意向を示します。

こうした行動により、一豊は関ケ原合戦で目立った戦績がなかったにも関わらず、合戦後に土佐一国を与えられました。

逸話

山之内一豊の妻・千代には内助の功に関する逸話の他にも、彼女自身に関する逸話が残されています。

そのうちのいくつかをご紹介します。

『千代』は本名ではない?


(「千代」の名がある『藩翰譜』)

山之内一豊の妻の名は正確には伝わっていませんが、「千代」として知られています。

小説やドラマでは「千代」という名が多く使われていますよね。

しかし、彼女の名は「まつ」だったという説もあります。

「千代」というのは、江戸時代の家伝・系譜書である『藩翰譜』にある山之内一豊の妻の名前です。

一方で、浅井長政が若宮友興の娘に宛てた書状に「おまつ御寮人」とあることから、彼女が若宮友興の娘であれば、「まつ」という名だったのではないかと言われています。

一方では、当時の武家の風習を考えれば、どちらとも彼女の名前だったとも考えられます。

当時、武家の家に生まれた子供は、男女ともに子供の時は幼名を名乗り、成人すると名を改めた風習がありました。

例えば、浅井長政の次女で後に京極高次の正室となった初は御鐺(おなべ)や於那(おな)という幼名がありました。

つまり、一豊の妻も始めは「まつ」という名で、結婚後「千代」と改名した可能性があります。

現在、明らかになっている彼女の正確な名は、夫の死後に名乗った見性院という院号のみです。彼女についての最近の記事には、彼女を指すとき、見性院(千代またはまつ)という記述が多く見られます。

『古今集』を愛読する知的な女性だった


(千代が愛読した『徒然草』)

嫁入りの際にはその利発さを認められるほど、頭の切れる賢夫人として知られた千代ですが、それだけではなく武家の娘らしく高い教養のある女性でした。

1605年に一豊が土佐で亡くなったのちは、後継の忠義に領国を任せ、自身は落飾し、亡夫一豊の墓所のある京の妙心寺付近に移り住みました。

京での彼女は、時に土佐の忠義に手紙を送るなど、折に触れてフォローしつつも隠居の身として『古今和歌集』や『徒然草』を熱心に読みながら余生を過ごしたと言われています。

千代は書道にも精通しており、彼女の書く書は巧みなものであったそうです。

内助の功の逸話は本当か?

山内一豊の妻と言えば「内助の功」の代名詞となっています。

彼女の「内助の功」で最も有名なのは、馬と黄金の逸話でしょう。

織田信長配下の木下藤吉郎に仕えることになった一豊の元に馬売りが訪れます。

馬の中には「東国一」と評されるほどの名馬がいました。しかし、その馬は当時の一豊には手が出せないほどの価格で、費用を捻出できなかった一豊はその馬を諦めるしかありませんでした。

帰宅した一豊が悔しさのあまり妻の千代にそのことを話すと、千代は嫁入りの際の持参金を差し出します。

その額は10両(現在の貨幣価値で約75万円)このお金を元に一豊は欲しかった名馬を購入し、織田家の馬ぞろえ(織田信長が京で開催した軍事イベント)に参加します。

一豊の馬の見事さは、織田家の威信を世に広めるのに貢献し、おかげで一豊は加増されたのです。

これは江戸時代に編纂された『藩翰譜』にまとめられているもので、山之内一豊・千代夫妻を扱った小説やドラマでは必ずと言っていいほど採用されるエピソードです。

しかし、史実によれば、織田家の馬ぞろえがあった1581年当時の一豊は、2000石取りの中堅武将になっていました。現在の貨幣価値で言えば1石は約5万円ですから、一豊は妻の持参金に頼らなくても、10両の馬を買えたのです。

その点を考慮すると、このエピソードは不自然なものになってしまいます。

もし、一豊が千代の持参金で馬を買ったという話が事実なら、一豊がもっと貧しかった1570年代始めの時期ではないか?ということで、この逸話が作られた時期には疑問の声が上がっています。

千代のおかげで名馬を買い、信長から加増されたと言う話は、後世に創作されたものか、小さな事実を元に、皆が感動するような美談になるよう話を作り変えた可能性が疑われています。

 いずれにしても、一豊の妻への信頼は厚く、実子に恵まれなかったにも関わらず生涯側室を迎えなかった点から考えても、彼女がこまめに夫を支えていたことが分かります。

一豊には不名誉な話ですが、千代の献身ぶりから、しばしば彼は妻の助けなしに立身出世は出来なかったのではないかという声も聞かれますが、これも事実とは異なります。

幼少期に父が戦死したために、浪人の身となった一豊ですが、武功にも優れ、判断力もありました。

一浪人から一国一城の主にまでのぼりつめたのは、もちろん千代の支えもあったでしょうが、妻の献身だけで戦を乗り切れるほど戦国の世は甘くありません。

そもそも、女性は戦場には行けませんから、一豊が立てた戦功はすべて彼が自分で考え実行したものです。

つまり、一豊は完全に妻に頼りきっていたわけではなく、よきビジネスパートナーとして、夫婦で家を守り立てていったというほうが近いのです。

現代的な感覚で言えば、一豊と千代は夫婦というより共同経営者に近い関係であったのかもしれませんね。

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