長宗我部元親の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは長宗我部元親という人物をご存知ですか。

長宗我部元親はたった1代で土佐国(高知県)を統一し、その後四国を平定した人物です。

また、明智光秀が本能寺の変を起こす遠因ともなった人物とも言われています。

今回は長宗我部元親について

  • 長宗我部元親の生い立ちとは?
  • 長宗我部元親の経歴や最後は?
  • 【エピソード】長宗我部元親の人柄や性格が分かる逸話

を紹介します。

こちらを読めば長宗我部元親の経歴やエピソードがわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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長宗我部元親の生い立ちとは?

~長宗我部元親が出てくるまでの長宗我部氏~

長宗我部元親と聞いてまず気になるのが、「長宗我部」という名字でしょう。

長宗我部氏の始まりは平安時代末期から活躍した秦能俊(はたよしとし)が土佐に入り長宗我部と名乗ったのが始まりとされています。

秦能俊は土佐国の長岡郡(現在の高知市の一部)宗我部郷に定住したことから宗我部氏を名乗ります。

しかし、長岡郡に隣にあった香美郡(かみぐん)宗我部郷にも宗我部を名乗っていた一族がいました。

そのため互いに区別するために

  • 能俊は岡郡の宗我部ということで長宗我部
  • 美郡の宗我部香宗我部(こうそがべ)

と名乗りました。

これ以降、長宗我部氏は南北朝時代・室町時代を生き抜いていきます。

そして、応仁元年(1467年)に応仁の乱によって戦国時代になります。

永正5年(1508年)に土佐国を支配していた管領(室町幕府のナンバー2)・細川氏が弱体化すると、土佐国では土佐七雄と呼ばれる7つの氏族が台頭します。

※土佐七雄

 長宗我部氏・本山氏・山田氏・吉良氏・安芸氏・大平氏・津野氏

しかし、長宗我部氏は土佐七雄の中では1番弱く、長宗我部元親の祖父・長宗我部兼序(かねつぐ)の代に本山氏らに居城・岡豊城を攻められ兼序は自害し長宗我部氏は滅亡します(1508年)。

※近年の研究では兼序は死なずに土佐国内で亡命したと言われています。

長宗我部氏は滅んだものの、兼序の遺児である千雄丸は土佐の国司(土佐七雄の盟主的な存在)であった土佐一条氏のもとへ行き保護されます。

※土佐一条氏は応仁の乱の後に関白であった一条教房が土佐国の幡多郡(高知県西部)に来て そこを治めたことが起源で、弱体した守護・細川氏にかわって土佐国人の共同体の盟主  (リーダー)となる

保護された千雄丸は後に長宗我部国親と名乗ります。

この国親が長宗我部元親の父となります。

長宗我部国親は一条家の支援のもと長宗我部氏再興に動きます。

~長宗我部元親の誕生と初陣~

長宗我部元親は天文8年(1539年)に長宗我部国親の嫡男として土佐国の岡豊城(おこうじょう)で生まれます。

元親が生まれた当時の長宗我部氏は一条氏の保護下にいましたが、父・長宗我部国親は一条氏の支援で長宗我部氏の再興を目指します。

長宗我部国親は仇敵であった本山氏と姻戚関係(娘を本山氏に嫁がす)を築き、

  • 天文13年(1544年)、大津城を攻め天竺氏を滅ぼす(長岡郡南部を制圧)
  • 天文18年(1549年)、土佐七雄の1つである山田氏を滅ぼす
  • 弘治2年(1556年)、 三男(元親の弟)を香宗我部氏の養子にする

など次第に勢力を拡大していきます。

そして、長宗我部元親は永禄3年(1560年)5月に父とともに本山氏攻めで初陣を果たします(長浜の戦い)。

この時、元親は22歳と遅い初陣でしたが自ら槍をもって敵を倒します。

この一戦によって元親の武名が高まりました。

長宗我部元親の経歴や最後は?

~父の死と土佐の統一~

長浜城の戦いで本山氏を倒し勢いに乗った長宗我部氏でしたが、戦いからわずか1ヶ月後に長宗我部国親が急死してしまいます。

父の急死によって突如として当主となった長宗我部元親でしたが、父の死を悲しんでいる暇は無く、父が亡くなった永禄3年の末には現在の高知市を支配下に置きます。

その後、長宗我部元親は本山氏の討伐を開始します。

  • 永禄4年(1561年)、 本山領の神田と石立を落とす
  • 永禄5年(1562年)、 一条氏とともに本山方の朝倉城を攻めるが敗北する
  • 永禄6年(1563年)、 本山当主・本山茂辰が家臣の離反もあり朝倉城を放棄する
  • 永禄7年(1564年)、 本山氏が本山を放棄し建昌城に籠城する
  • 永禄11年(1568年)、本山茂辰が病死し親茂が継ぎ抵抗するも本山氏を降伏させる

本山氏の降伏によって長宗我部元親は土佐中部を手に入れます。

土佐中部を手に入れた長宗我部元親は一条氏からの独立を企て、永禄10年(1567年)に一条氏が毛利氏の攻撃を受けた際には、毛利氏と同盟を結んでいた河野氏に戦勝祝いを送ります。

また、永禄12年(1569年)には一条氏と手を結んだ土佐東部の安芸氏を滅ぼし土佐東部を平定します。

さらに、一条氏での内紛に介入して当主の一条兼定(父・国親を助けた房家の曾孫)を追放し、兼定の子・内政(ただまさ)に娘を嫁がせ一条氏を操ります。

これによって長宗我部元親は土佐国のほとんどを手に入れ、天正3年(1575年)には追放されていた一条兼定が土佐国に攻めてきますがこれを撃破(四万十川の戦い)し、土佐国を完全に統一します。

~織田信長と同盟を結び同盟四国統一に動く~

長宗我部元親が土佐を統一した頃、中央では室町幕府を滅ぼした織田信長が織田政権を樹立していました。

長宗我部元親は正室が織田家臣・明智光秀の家臣である斎藤利三の義理の妹であったため、その縁から織田信長と同盟を結びます。

※織田信長も畿内や地方(武田・上杉・毛利など)では敵が多かったため少しでも味方が必要 状況で、長宗我部元親も四国平定に動いていたため互いの利害が一致した同盟でした。

織田信長という強大な味方を手にした長宗我部元親は四国平定に動きます。

長宗我部元親はまず阿波(徳島県)・讃岐(香川県)に侵攻します。

阿波と讃岐は三好氏が統治していましたが織田信長に負けて衰退していました。

最初は三好の残党であった三好長治の抵抗によって思うように攻略は出来ませんでしたが、天正5年(1577年)に三好氏と敵対していた細川真之と手を組み三好長治を討ちます(荒田野の戦い)。

三好長治の戦死によって三好残党は弱っていき、長宗我部元親は天正8年(1580年)までにほぼ阿波・讃岐を制圧しました。

一方、伊予国(愛媛県)の平定では、伊予守護の河野氏と河野氏と同盟を結んでいた中国地方の覇者・毛利氏の連合軍の前に苦戦し伊予国の平定は長引きます。

しかし、長宗我部元親はたった1代で一国も持っていなかった状況から土佐・阿波(一部を残して)・讃岐の三国を治めるまでに勢力を拡大させました。

~織田信長との対立~

長宗我部元親は織田信長との同盟もあり四国平定まであと一歩のところまで来ました。

しかし、天正8年(1580年)に織田信長が突如として土佐国と南阿波以外の長宗我部領を割譲しろという要求をしてきます。

これは織田信長からすると長宗我部氏の勢力拡大への危機感によるものであること、また、天正8年(1580年)中には石山本願寺との終戦なども信長が攻勢に出た理由です。

長宗我部元親は信長の要求に断固反対し敵対関係となります。

長宗我部元親は織田信長の支援を得た三好康長の反攻を受けるなどし、天正10年(1582年)5月には織田信長の三男・織田信孝を総大将とする四国攻撃軍を編成します。

当初は戦う決意を決めていた長宗我部元親でしたが、旧三好家臣らが織田方に寝返ったことで、元親は明智光秀家臣の斎藤利三に信長への恭順を示す書状を送ります。

しかし、天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起きたことで織田軍からの危機は脱しました。

~四国統一~

織田信長の死によって危機を脱した長宗我部元親は再び四国統一へ動きます。

長宗我部元親は、まず、阿波の十河存保(そごうまさやす)を討つため阿波国へ侵攻しこれを破り(第1次十河城の戦い)、阿波を完全に平定します。

その後、明智光秀討った羽柴秀吉と織田家宿老の柴田勝家が対立すると(賤ヶ岳の戦い)、長宗我部元親は柴田勝家と手を組み羽柴秀吉を背後から牽制します。

羽柴秀吉は長宗我部氏への対処として家臣の仙石秀久・小西行長を十河存保の援軍として讃岐へ送ってきます。

長宗我部元親はこの援軍を撃破しますが、柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ滅んでしまいます。

柴田勝家は滅びましたが、天正12年(1584年)に長宗我部元親は今度は徳川家康と手を結び秀吉に対抗します(小牧長久手の戦い)。

これによって長宗我部元親は秀吉を背後から牽制し、さらに秀吉が家康を相手にしている間に四国統一のため伊予国へ出陣します。

しかし、伊予国を治めていた河野氏と河野氏と同盟を結んでいた毛利氏の抵抗もあって苦戦を強いられます。

苦戦を強いられた長宗我部元親でしたが伊予国国人で新井・宇摩(愛媛県東部)を統治していた金子氏と同盟し反攻にでます。

さらに遠征によって疲れていた毛利軍が勢いを落とすと天正12年(1584年)12月に河野氏が降伏しました。

長宗我部元親は伊予国を手に入れ四国統一を成し遂げました。

~豊臣秀吉への臣従と活躍、そして元親の最後~

天正13年(1585年)初めまでに四国を統一した長宗我部元親でしたが、今度は小牧長久手の戦いで徳川家康と和解した羽柴秀吉が前に立ちはだかります。

この時の羽柴秀吉の勢力は織田信長よりも大きかったため、長宗我部元親は抵抗せず伊予国を割譲する理由で和睦しようとします。

しかし、秀吉は何度も長宗我部元親に背後を脅かされていたため、この和睦を許さず同年5月に約10万の大軍で四国へ攻めてきます。

10万の大軍相手では四国統一した長宗我部軍でも撃破するのは無理に等しく、阿波の城々は次々と落とされていきます。

この状況に長宗我部内部では主戦派と反戦派に分かれます。

長宗我部元親は反戦派に同調し同年7月25日に降伏します。

元親は命は助けられましたが讃岐・伊予・阿波の三国を没収され土佐一国のみとなります。

 

豊臣政権下では

  • 天正14年(1586年)、九州征伐に参加しますが戸次川の戦いで嫡男・信親を失います

※信親の死を聞いた元親は自害しようとしますが家臣が止めて伊予へ帰還します

  • 天正16年(1588年)、本拠を高知城へ移します
  • 天正17年(1589年)、豊臣秀吉から羽柴姓を与えられます
  • 天正18年(1590年)、小田原征伐では水軍を率いて下田城(海城)を攻めます
  • 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では水軍を率いて参戦します
  • 慶長元年(1596年)、サン=フェリペ号事件の原因を作る

といった活躍します。

慶長2年(1597年)には土佐国内を安定させるために分国法『長宗我部元親百箇条』を制定します。

※分国法とは戦国時代に大名が領国を統治するために制定した決まりごと

  • 伊達氏『塵芥集(じんかいしゅう)』
  • 今川氏『今川仮名目録』
  • 武田氏『甲州法度次第』

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなります。

長宗我部元親は慶長4年(1599年)4月頃に体調を崩し、同年5月19日に伏見屋敷で亡くなりました(享年61歳)。

【エピソード】長宗我部元親の人柄や性格が分かる逸話

長宗我部元親のエピソード1.小さい頃は軟弱でうつけ者だった

長宗我部氏の当主として織田信長や豊臣秀吉と戦った長宗我部元親でしたが、幼少の頃は大人しく、人に会っても挨拶・返事もしなかったようで、周りからは「姫若子」と呼ばれていました。

姫若子とは女の子みたいにな子ということです。

こんな性格の元親を父・国親は後継ぎにしていいのか悩んでいました。

しかし、元親が家臣の秦泉寺豊後(しんせんじ ぶんご)から槍の指導を受けると、大人しかった性格が嘘だったかのような変貌を遂げ、初陣だった長浜の戦いで敵を次々と倒していきました。

この姿を見た周りの人からは「姫若子」ではなく「鬼若子」と評されるようになりました。

長宗我部元親のエピソード2.本能寺の変に元親が関わっていた?

2014年にある研究結果が発表されました。

それが岡山県の林原美術館が所蔵していた「石谷家文書」の手紙の内容に関するもので、手紙には対立していた長宗我部元親が織田信長への恭順する内容のものが書かれていました。

では、なぜ長宗我部元親が本能寺の変に関わっているのかというと、長宗我部元親と織田信長の仲介役だったのが明智光秀でした。

明智光秀といえば本能寺の変を起こした張本人です。

また、明智光秀と長宗我部元親の関係はただの仲介役ではなく縁戚関係でした。

※元親の正室は石谷光政(元親家臣)の娘で、光政の娘婿(元親正室の姉の夫、石谷氏の養子と なる)として迎えた石谷頼辰の弟が明智光秀家臣の斎藤利三でした。

元々、長宗我部元親と織田信長は同盟関係にあり信長は元親の四国統一を容認していました。

しかし、元親の四国統一が目前にまで迫ると信長は突如として方向転換し土佐国と南阿波だけの領有を認めると言ってきました。

この方向転換によって仲介役をやっていた明智光秀の面子は丸潰れとなってしまいます。

光秀としては元親に対して嘘をついたことになってしまいます。

結局、この後、明智光秀は本能寺の変を起こし信長は亡くなりますが、光秀がこの長宗我部のことだけで謀反を起こしたとは考えにくいでしょう。

本能寺の変には怨恨説・野望説・黒幕説など様々な説がありますが、この手紙の発見で四国説というのが新しく加わることは間違いないでしょう。

2020年の大河ドラマで明智光秀が主役の『麒麟がくる』の放送が決まりましたが(光秀役は俳優の長谷川博己さん)、本能寺の変の場面でどの説を使うのかにも注目しながら見るのもいいかもしれません。

長宗我部元親のエピソード3.部下思いだった

豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた後、各地の大名を大坂に呼びます。

そこで秀吉は饅頭を配り各大名は饅頭を食べましたが、元親は端の方をちぎって食べ、残りを紙に包みました。

これを見た秀吉から「その饅頭をどうするのか」と聞かれると、元親は「太閤から頂いた大事な饅頭なので、これを持って帰って家臣に分けます」と言いました。

この元親の家臣思いの性格に感銘し残りの饅頭をすべて与えたといわれています。

長宗我部元親のエピソード4.長男の死によって性格が変わる

四国を統一し豊臣秀吉の戦うなど武人としては立派な元親でしたが、九州征伐の際に長男の信親が戦死してしまいます。

信親が亡くなるまでの元親は情け深い性格だったようで、寝返った敵の人質を解放するなどしていました。

そのため、元親は「律儀第一の人」「仁慈に厚い名君」と評されていました。

しかし、信親が亡くなった後は性格が変わってしまいます。

ある日、家臣の一人が他家から召し抱えられようとした時に、その家臣は元親への忠義からこれを拒否します。

しかし、元親はその家臣を捕らえ弁解も聞かない内に一族を殺してしまいます。

また、後継者を決める際に、次男と三男を抜かして四男の盛親を後継ぎに選びますが、この際に、反対した家臣を粛清するなどし強行に決めてしまいます。

ちなみにこの後の長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦、この際に兄の津野親忠(元親から嫌われていた)が徳川家康に謝罪し本領安堵してもらうように取り付きますが、久武親直の「親忠が土佐を乗っ取ろうとしている」という讒言(ざんげん、他人をおとしいれる)を信じ親忠を殺します。

これによって盛親は「兄殺し」と言われ徳川家康の怒りを買い改易させられてしまいます。

さらに、この改易の恨みから大坂の陣では真田幸村らと豊臣方に味方しますが敗戦、幕府方に捕らえられ最後は斬首されます。

盛親の死によって長宗我部氏は完全に滅亡してしまいます。

まとめ 長宗我部元親はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで長宗我部元親について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 長宗我部元親は土佐国で生まれた
  • 長宗我部元親は1代で四国を統一した
  • 長宗我部元親は織田信長・豊臣秀吉と戦った
  • 長宗我部元親は長男を早くに亡くした
  • 長宗我部元親は情け深い性格だったが長男の死後は一変した

長宗我部元親が出ている大河ドラマや映画は残念ながらありません。

私が大河ドラマで見てみたい武将の一人です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上「長宗我部元親の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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