長宗我部元親の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

長宗我部元親とは土佐国(現在の高知県)で生まれ、祖父の時代に一度は衰退した長宗我部氏を1代で四国を統一するまでに勢力を拡大させました。

織田信長・豊臣秀吉らといった強大な大名を相手に渡り合っていきました。

今回は長宗我部元親について

  • 長宗我部元親の代表的な戦とは
  • 【逸話】長宗我部元親の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】長宗我部元親の強さはどれくらい?

を紹介します。

こちらを読めば長宗我部元親の戦や強さがわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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長宗我部元親の代表的な戦とは

長宗我部元親の代表的な戦い1.戸ノ本の戦い(長浜の戦い)

長浜の戦いとは永禄3年(1560年)5月28日に長宗我部軍と本山軍の間で起こった戦いで、長宗我部元親が初陣を飾った戦いとしても有名です。

また、この時元親は22歳で遅い初陣となりました。

応仁の乱(1467年)のあとに土佐守護の細川氏が弱体したことで、土佐国では土佐七雄と呼ばれる7つの家が台頭しました。

長宗我部氏と本山氏は土佐七雄の数えらていましが、長宗我部氏は元親の祖父の時代に本山氏によって一度は滅ぼされてしまいます。

しかし、元親の父・国親が長宗我部氏を再興させ仇敵でもある本山氏を攻撃します。

長宗我部軍は本山方の前線であった長浜城を攻撃します。

開戦当初は本山軍の堅い守りの前に苦戦しますが、工作によって長浜城の門を開けやすくし、5月27日に奇襲し長浜城を落とします。

そして同月28日に長宗我部軍と本山軍は激突します(戸ノ本の戦い)。

この戦いで元親は50騎を率いて70程の敵を討ち取りました。

この戦い以降負けた本山氏は衰退していき、長宗我部が台頭していくことになります。

長宗我部元親の代表的な戦い2.小田原征伐

小田原征伐とは天正18年(1590年)2月から7月までに豊臣秀吉によって相模国北条氏の居城小田原城を攻めた戦いです。

天正15年(1587年)に九州平定をした豊臣秀吉は天下統一のため上洛命令を無視した北条氏の討伐を決めます。

豊臣秀吉は約20万の大軍で小田原城へ出陣し、長宗我部元親は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと約1万の水軍を率いて海から攻めます。

小田原城への進軍途中に北条方の下田城(現在の静岡県下田市にあった海城)を攻撃します。

下田城は北条水軍の根拠地で北条家臣・清水康英が600の兵で守っていました。

長宗我部元親らは50日ほどで下田城を落とし、その後は小田原城の包囲に参加します。

そして、天正18年(1590年)7月5日に小田原城は降伏します。

【逸話】長宗我部元親の勝ち戦と負け戦は?

長宗我部元親の勝ち戦:中富川の戦い

中富川の戦いとは天正10年(1582年)8月から9月に長宗我部元親と十河存保(そごうまさやす)が阿波国(徳島県)の中富川周辺(現在の吉野川本流と旧吉野川に挟まれていた河原「中富河原」)および勝瑞城(しょうずいじょう、現藍住町)を舞台に行われた戦いです。

この戦いの損害は阿波国で史上最大といわれています。

~戦いまでの経緯~

天正2年(1575年)に土佐国を統一した長宗我部元親は織田信長と同盟を結び阿波国・讃岐国(香川県)・伊予国(愛媛県)へ侵攻します。

天正8年(1580年)までには阿波国と讃岐国を平定し残るは伊予国だけでしたが、突如として織田信長が土佐国と南阿波以外を割譲(旧三好領)するように要求してきます。

元親はこの要求を拒絶し信長と戦うことを決めます。

そして天正10年(1582年)5月に織田軍が四国を攻める準備を始めます(信長3男・神戸信孝と重臣の丹羽長秀)。

織田軍が四国へ侵攻する準備を始めると、衰退していた三好氏と十河氏が勢いを吹き返し、阿波国や讃岐国で長宗我部氏に対抗し始めます。

長宗我部氏は召し抱えていた旧三好家臣の織田方への寝返りもあり阿波国の一宮城や夷山城などを落とされ窮地に追い込まれます。

しかし、同年6月2日に本能寺の変が起こったことで織田軍の四国侵攻は中止となります。

本能寺の変によって織田軍の脅威が無くなった長宗我部元親はすぐに一宮城と夷山城の奪還に動きます。

8月に入ると長宗我部元親は岡豊城(おこうじょう)を出陣し牛岐城(うしきじょう)に入り、26日には十河存保が放棄した一宮城と夷山城を奪還します。

一宮城と夷山城を奪還した長宗我部元親は軍を十河存保が籠もる勝瑞城を目指して進軍し、27日に中富川南岸に着陣します。

~中富川の戦い~

両軍は8月28日に激突します。

両軍の兵力は

  • 長宗我部軍が約2万3千
  • 十河軍が約5千

と圧倒的に長宗我部軍が優勢でした。

長宗我部元親は軍を2つに分け、本陣を元親自身と長宗我部信親(元親の嫡男)が率い、香宗我部親泰(元親の弟)を本陣の西側(川の南西)に先陣として配置します。

一方、十河存保は総力戦をしき5千の兵を率いて勝瑞城を出陣し中富川の北側(中富河原)に着陣します。

この時、十河軍は中富川の北岸に土塁と防柵を築き鉄砲隊を配置し迎撃態勢をとります。

戦いは香宗我部勢による中富川の渡河によって開始されます。

さらに長宗我部信親も東側から中富川を渡ります。

開戦当初は十河軍の鉄砲隊や弓矢隊の迎撃もあり長宗我部軍は苦戦します。

しかし、兵数で勝っていた長宗我部軍は次第に十河軍を押していき十河方の七条兼仲(三好氏全盛期からの重臣)を討ち取ります。

この状況に十河存保は勝てないことを悟り本拠・勝瑞城へ撤退します。

中富川の戦いは長宗我部軍の勝利に終わりました。

~中富川の戦い後~

中富川の戦いで勝利した長宗我部元親は十河存保が籠もった勝瑞城を包囲します。

包囲した長宗我部軍でしたが、大雨によって中富川と吉野川が氾濫し洪水となってしまったため長宗我部軍は多方向に逃げ、民家の屋根や木に登って避難します。

しかし、この避難が裏目に出てしまいます。

勝瑞城の十河軍兵士が小舟に乗って城を出て、屋根の下から槍で長宗我部軍兵士を串刺しにします。

※『鳥刺し舞』という踊りが後に阿波で流行りますが、この場面を基に作られたと言われて います

十河軍の思わぬ反撃にあった長宗我部軍は多数の死傷者を出してしまいますが、長宗我部元親は水が引くと軍を立て直して勝瑞城へ総攻撃を仕掛けます。

そして、9月21日に十河存保が降伏を申し出てきたため、元親は降伏を受け入れ存保を免罪にします。

この戦いでの死者数は両軍合わせて約1500人以上といわれています。

しかし、長宗我部元親はこの戦いの勝利によって阿波国を統一することが出来ました。

長宗我部元親の負け戦:戸次川の戦い

戸次川の戦いとは天正15年(1587年1月20日)12月12日に九州平定に乗り出した豊臣秀吉と九州を統一した島津義久との間で起こった戦いです。

~戦いまでの経緯~

中富川の戦い(1582年)で勝った長宗我部元親は阿波統一後、讃岐国と伊予国も平定し天正13年に四国を統一しました。

しかし、今度は織田信長の後を継ぐようにして勢力を拡大させた羽柴秀吉が四国へ介入してきます。

羽柴秀吉からは

  • 伊予国(愛媛県)
  • 讃岐国(香川県)

を返還するように言われます。

長宗我部元親は伊予一国をだけを割譲することを条件に和睦しようとします。

しかし、羽柴秀吉はこの条件を拒否し約10万の兵を四国へ出陣させます。

四国を統一したといっても、10万の敵を相手に戦うのは不利だと悟った元親は天正13年(1585年)7月に降伏します。

羽柴秀吉に降伏した長宗我部元親は、九州豊後国の大友氏救援のため天正14年(1586年)12月に四国勢として嫡男・信親とともに、秀吉家臣・仙石秀久を主将とする九州平定軍の先発隊に配属され九州に渡ります。

同年12月11日に島津家久(島津当主・島津義久の弟)が豊後国へ侵攻し鶴賀城を攻撃します。

この島津軍の侵攻に仙石秀久を初め長宗我部元親は鶴賀城救援のために戸次川に陣をしきます。

~戸次川の戦い~

豊臣軍と島津軍は12月12日に激突します。

両軍の兵力は

  • 豊臣軍が約2万

※元親が配属された先発隊は約6千

  • 島津軍が約1万3千

と豊臣軍の方がやや優勢でした。

しかし、豊臣軍がやや優勢といっても、当時の島津氏は九州の大半を手に入れていたことや島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)が健在していたこともあり、連合軍でまとまりがなかった豊臣軍よりも士気が高い状態にありました。

さらに、島津軍を指揮していたのは島津四兄弟の末弟で「鬼島津」と評された島津義弘にも劣らぬ島津家久でした。

島津家久は島津氏が九州平定する過程で、肥前国の龍造寺氏と戦った沖田畷の戦いで島津軍の4倍もある龍造寺軍を「釣り野伏せ」戦法で破り、当主の龍造寺隆信を討つ活躍を見せた武将でした。

この勢い乗っていた島津軍の前に仙石秀久と長宗我部元親は軍議を開きます。

仙石秀久は戸次川を渡って攻めることを主張しますが、長宗我部元親は次のように反論します。

  • 伏兵がいる可能性があるから川を渡っての攻撃は危険だ
  • 敵を誘い出して加勢を待つべきだ(先発隊は6千と島津軍より少なかった)

しかし、仙石秀久の意見に十河存保らが賛同したため元親の意見は通りませんでした。

そして、豊臣軍は12日の夕方に川を渡り島津軍へ攻撃します。

先陣の仙石勢が島津軍の先陣を圧倒し徐々に押していきました。

しかし、これは島津軍の得意戦法であった「釣り野伏せ」の初めに過ぎませんでした。

このことを知らなかった仙石勢はどんどん敵陣深くまで進軍しますが、ここで左右を島津軍に囲まれたことに気がつきます。

気づいたときにはもう遅く仙石勢は壊滅し、信親の二陣と元親の三陣も壊滅します。

島津軍の前に豊臣軍は壊滅し、主将の仙石秀久は戦場から逃げてしまいます。

長宗我部元親はなんとか脱出して伊予国の日振島(ひぶりしま)に逃げますが、嫡男の信親は奮戦の末に討ち死にしてしまいます。

※中富川の戦いで死闘を繰り広げた十河存保も戦死

この戸次川の戦いでの敗戦は信親の死もあり長宗我部家の命運を分けた戦いでもありました。

【最強伝説】長宗我部元親の強さはどれくらい?

長宗我部元親の強さ1.姫若子から鬼若子へ

四国の統一や織田信長・豊臣秀吉と戦った長宗我部元親ですが、幼少の頃は大人しく軟弱な性格だったことから周りからは「姫若子」と揶揄されていました。

※姫若子とは女の子みたいな子という意味

そのため、父・長宗我部国親は元親に跡を継がせるか悩んでいました。

そんな長宗我部元親でしたが、初陣となった長浜の戦いで脅威の変貌を遂げます。

長浜の戦いの際に長宗我部元親は家臣の秦泉寺豊後(じんせんじ ぶんご)から槍の指導を受けます。

また、大将としての心構えについても指導を受けたと言われています。

秦泉寺から指導を受けた長宗我部元親は、戦になると教わった通りに行動し敵兵を次々と討ち取っていきました。

この姿を見た人は「姫若子」ではなく「鬼若子」と呼び賞賛しました。

さらに土佐を統一してからは「土佐の出来人」と呼ばれました。

長宗我部元親の強さ2.一領具足

一領具足(いちりょうぐそく)とは戦国時代に長宗我部氏が作った組織の呼称です。

この組織を考案したのは元親の父・長宗我部国親ですが、一領具足を有効に活用し勢力を拡大させたのは元親でした。

戦国時代当時、戦で中心的な役割を担っていたのは足軽という普段は農業をし戦いなると武器を手に戦場へ行っていました(半農半兵)。

さらに、戦国前期やそれ以前(南北朝・室町)の足軽は土地を持たない傭兵のような存在で、戦っても褒美がもらえなければ簡単に鞍替えをしていました。

そんな時に長宗我部国親は足軽に領地を与えます。

これによって長宗我部氏は忠誠心が高い足軽と専属の兵士を手に入れることができるようになり、また一定の兵力を動員することが可能となりました。

この一領具足は長宗我部元親が四国統一するなかで一番の武器となります。

※ちなみに兵農分離(兵士専門と農民専門に分ける)は豊臣政権以降にできたものです

長宗我部元親の強さ3.分国法の制定

分国法とは戦国大名が領国を統治するために制定した決まりことです。

長宗我部元親は慶長2年(1597年)に『長宗我部元親百箇条』という分国法を制定します。

この分国法は一番最後の分国法といわれています。

また鎌倉時代に制定された御成敗式目の影響受けていることから社寺崇敬から始まります

主な内容は

  • 年貢の事
  • 刃傷殺害の禁止
  • 升を京枡に統一する
  • 私的主従契約の禁止
  • 訴訟の規制

を規定します。

他には

  • 喧嘩口論の禁止 背いた場合は両成敗
  • 国家への反逆は重罪
  • 賭博禁止
  • 田んぼを隠した場合は首をはねる
  • 武士の妻が他の男と関係を持った場合は妻を殺すこと

を制定します。

まとめ 長宗我部元親のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで長宗我部元親について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 長宗我部元親の初陣は22歳だった
  • 長宗我部元親は織田信長・豊臣秀吉と戦った
  • 長宗我部元親は水軍を率いた
  • 長宗我部元親は戦で嫡男を亡くした
  • 長宗我部元親は一領具足を率いて四国を統一した

大河ドラマでは残念ながら長宗我部元親が出てきた作品はありません。

本では

  • 山本大さんが書いた『長宗我部元親』
  • 津野倫明さんが書いた『長宗我部元親と四国(人をあるく)』
  • 司馬遼太郎さんが書いた『夏草の賦(上・下)』

がオススメです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上「長宗我部元親の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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