アンビリーバブルな人生を歩んだウォルト・ディズニー!
いったいどんな人生を歩んだのでしょうか? 今回は彼の謎めいた人生をご紹介します。
ウォルト・ディズニーってどんな人で、何をしていた人なのでしょうか?
漫画家? アニメーターそれともテーマパークの実業家?
結論から言えば、アニメーターです。
夢にあふれるテーマパークを造った人物でもありますが、もともとは生粋なアニメーターでした。
ウォルト・ディズニーの生涯
生い立ち
1901年12月5日、アメリカ合衆国中部に位置するイリノイ州シカゴで鉄道員の父の子供として5人兄弟の4男として生まれました。
父親は職業を転々としたために家庭はいつも貧しく、ウォルトが幼いころ、引っ越しを繰り返しました。
実業家になるまで、長い間貧しい暮らしを余儀なくされた人生でした。
少年期
幼いウォルトは次第に絵を書くことが大好きな少年になっていきました。
絵を描く才能は天才的で、なんと7歳の時に絵を書いて売り、買うお客さんがいたほどでした。
学校では、自然や動物を対象に絵を書く少年でした。
絵以外では鉄道に興味があり、庭にミニチュアの鉄道があり、そのミニチュアの鉄道に乗って遊ぶことが大好きな少年でした。
青年期
高校へ通うようになると家が貧しかったため、新聞配達等のアルバイトをしながら学業に励んでいました。
学校では校内で発行する新聞の漫画コーナーに漫画を投稿し、漫画絵が上手であることで有名でした。
また、高校に通いながら夜、絵を学ぶ専門学校にも通っていました。
新聞配達等の早朝のアルバイトをしながら通う学生生活は身体的にとてもきつく、よく学校で居眠りをしていたそうです。
ちょうどそのころ世界では第一次世界大戦が始まり、アメリカも1917年に参戦することになり、国内では愛国主義のイデオロギーが芽生え、ウォルトも次第に影響されていったようです。
わずか16歳で高校と美術学校を退学し、自ら陸軍兵士に志願しました。
陸軍はわずか16歳ということもあり、彼を前線で戦う兵士ではなく、衛生兵として採用しました。
衛生兵として任務についている間、束の間の休日には漫画を描いて過ごしていたようで、仲間の間では一風変わった存在で有名でした。
衛生兵として採用されたこともあり、終戦後、命を落とすことなく帰国することが出来ました。
帰国後は家を出て、カンザスシティへ行き、新聞社で漫画を描く仕事をしながら漫画家を目指しました。
当時、新人漫画家に対しての給与は低く、その日の生活にも苦しむような貧しい日々でした。
みかねた1つ上の兄のロイが知人のつてで、広告デザインの仕事をしている友人を紹介しました。
そこで、ウォルトは生涯最大の友人となるアブ・アイワークスと出会い、親交を深めます。
その1年後、2人とも広告デザインの仕事をリストラされ、リストラを押しのけるようにして、2人で力を合わせて会社を起業しました。
それが「ウォルト・アイワークス・カンパニー」です。
しかし、設立と同時にウォルトがアニメ制作会社であるカンザスフィルムにて、短編アニメの作画担当として採用されたため、2人で設立した会社で仕事をする間もなく、会社は倒産してしまいます。
アニメーターへの転身
カンザスフィルムでは短編アニメの作画を担当していましたが、途中でアニメーターとしての資質に気が付き始め、漫画からアニメへと興味が移っていきました。
ここで、皆さんは漫画とアニメってどう違うの?と思われる方も多いと思います。
「漫画」とは絵と文字のみで作成されたものです。
「アニメ」は漫画を動画化したもので、漫画では聞こえないセリフや音楽等が導入されます。
漫画を動くようにしたものがアニメになるのですね。
日本では第2次世界大戦後、アニメ制作の時代がやってきます。
お話しは、ウォルト・ディズニーに戻りますが、ウォルトは気が付くとアニメーション制作に没頭していました。
それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性を確信していたようです。
時は1920年、ウォルトは独立して個人事務所を設立しました。
アイワークスをはじめ数人のアニメーターを呼び寄せ、アニメ制作に没頭しました。
ところがあまりに制作だけに集中しすぎて、会社経営がおろそかになり、結局この会社も倒産します。
ここで作成したアニメ「ニューマン劇場のお笑い漫画」は、社会から高い評価を得ることとなります。
制作と経営を両立することの大変さを痛感したようです。
2度起業し、2度倒産しましたが、それでもあきらめず、1つ上の兄のロイと起業します。
企業名は「ディズニー・ブラザーズ社」です。
そして、過去に制作した「アリスの不思議な国」を基に再びアニメの制作が出来るようになりました。
これが、ウォルト・ディズニー・カンパニーの前身です。
そこで自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」(ミッキーマウスに似ている)を考案し、アニメをユニバーサル配給で制作しました。
初のディズニーキャラクターとして生まれた「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」は、ディズニー・ブラザース社を急激に成長させました。
その後、ユニバーサルピクチャーズと著作権の問題等で会社が倒産寸前に追い込まれるのですが、決してあきらめないウォルトでした。
ウォルトは「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」に代わる自社キャラクターが絶対的に必要だと考え、試行錯誤の上、ついに1928年11月18日にミッキーマウスを誕生させます。
なぜねずみをアニメのキャラクターにしたのか?
では、なぜ、ねずみがモデルなのでしょうか?
犬でもなく、猫でもなく、羊でもなく、なぜねずみなのでしょうか。
その秘密は彼の生い立ちにありました。
ウォルトが幼いころ、両親が親戚の借金の連帯保証人になり、親戚が経営していた会社が倒産してしまいます。
一家は貧乏生活を余儀なくされました。
その時住んでいた屋根裏部屋に一匹のねずみがいました。彼はそのねずみに心を癒されていたようです。
そのねずみがモデルとなり、ミッキーマウスが誕生しました。
ミッキーマウスはデビュー当初こそ不人気でしたが、ウォルトの高い演出力とアイワークスの天才的な作画がコラボし、人気に火がつきました。
そして、ディズニーランドというテーマパークの看板キャラクターとなり、現在まで続くこととなります。
今ではアメリカのシンボルマークと言っても過言ではないでしょう。
世界に名をとどろかせたキャラクター達について
ディズニーのキャラクターは全部で53作品あります。
日本でも子供から大人まで幅広い年齢層に親しまれ、多くの人達を魅了してきました。
ディズニーが創業されたころ、1920年から1930年代にかけては短編が主流で、ミッキーマウスシリーズやシリーシンフォニーシリーズ等が主流でした。
1937年~1949年にかけては長編アニメへ挑戦する時代となっていきます。
1937年~1949年 アニメーションへの挑戦
1937年以降、短編では中々採算が取れず、長編に挑戦することになっていきました。
その第一作目が白雪姫でした。
白雪姫
グリム童話の作品
1934年より世界発のカラー長編アニメーション映画となります。
制作後、爆発的な人気が生じ、以後、長編カラーアニメを手掛けることになります。
白雪姫が公開された1937年には「ディズニー・ブラザーズ社」の従業員数は800名もいました。
ディズニーの歴史はこの白雪姫から始まったと言っても過言ではないでしょう。
本作では個性豊かな7人のこびとが登場しており、その見事な描きにディズニーならではのアニメーションを楽しむことが出来ます。
※上映時間は83分、1937年12月21日公開
ピノキオ
原作は、カルロ・コッローディ作の童話「ピノッキオの冒険」
1937年前後に制作が開始され、ストーリーが再作成されました。ストーリー再作成のために一度制作が中断されたこともあります。
キャラクターを活かすにはストーリーが重要であると考えられたからです。
物語を根本から覆し、再作成されたのでした。 アニメ制作はストーリーあってのアニメ制作なんですね。
※上映時間は88分、1940年2月23日公開
ダンボ
原作はヘレン・アバーソン、ハロル・パール「ダンボ」
ダンボはディズニーの代表作でもあります。動物を主体とした初の長編アニメ制作です。
もともと短編製作として作られており、制作期間、制作費はかなり縮小されています。
製作費で言うと、白雪姫が150万ドル(1億5,000万円)に対し、ダンボは95万ドル(9,500万円)です。
※上映時間は64分、1941年10月23日公開
バンビ
原作は、フェーリックス・ザルテン「バンビ」
ダンボに続く動物を主体としたアニメ制作ですが、より本格的に動物のことが描かれています。
しなやかな動物の動きは多くの人々の心を魅了しました。
制作のために専門家の講義を受けたり、製作所に小さな動物園を設置したり、アニメーターが本格的に動物のことを観察出来るようにしました。
また、テスト期間やアニメーション制作だけでも3年以上が費やされ、動物に命を吹き込む作業に妥協しませんでした。
その成果は作品で見事に結実され、このバンビで蓄積された動物を描く技術は、その後の制作に大きく影響を与えたのでした。
※上映時間は72分、1942年8月13日公開
ディズニーランドの創始者
そもそもなぜ、巨大テーマパークを創設しようと思ったのか?
その理由を探ってみましょう。
ウォルト・ディズニーの生涯の「アニメーターへの転身」で、ウォルト達一家は借金の保証人になったばかりにとても貧しい生活を余儀なくされたことをお話ししましたが、子供時代、ウォルトは欲しいものは一切買ってもらえませんでした。
不揃いの上下の洋服を着たり、おもちゃも当然買ってもらえず、ウォルトは心のどこかでファンタジーな世界にあこがれていました。
子供らしい子供時代を過ごすことが出来なかったために、大人になってからも自分の理想を追い求めていきました。
自分の夢を現実の世界にしたかったということから夢にあふれた巨大テーマパークを長い年月をかけて造っていくことになります。
建設計画
建設計画当初1950年代当時は、遊園地は子供が楽しむところとされていました。
なんとか大人も楽しめる遊園地はないか試行錯誤し、ようやく参考にするべき遊園地を見つけました。
そのひとつが1950年に作られたカリフォルニア州オークランドに建設された最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」です。
もうひとつが、デンマークに1843年に建設された遊園地「チボリ公園」でした。
建設計画当初は、ウォルトは、蒸気鉄道を走らせた公園を建設する予定でした。
これはウォルトが子供の頃、鉄道模型を買ってもらえなかったのが理由です。
こうして、第2次世界大戦終了後、本格的な建設計画が始まりました。
建設資金はどうやって?
巨大テーマパークを建設するには建設資金を作らねばなりません。
ウォルトは何を思いついたと思いますか?
巨額なお金をどうやって作っていったのでしょうか。
ウォルトはテレビを利用して「ディズニーランド」を破格に宣伝しました。
そして協力してくれたテレビ局に所有権を与えたのです。言葉を変えて言えば所有権を売ったのでした。
その結果、ディズニー・ブラザーズ社になんと75万ドルの資金が提供されました。
その資金を基に、ウォルトは計画中の遊園地のために、160エーカー(730,000m2)の用地を、1エーカーあたり4000ドルでロサンゼルス近郊に取得しました。
こうして建設が開始されました。
建設開始~オープンまで
1954年7月24日に着工され、建設するにあたり、ウォルトは建設現場にほぼ毎日通い、子供の目線に立ち、子供の気持ちになって様々なアトラクションや各種施設が出来上がっていくのを自分の目で確認しました。
又、建設現場では細かな作業に関する指示をしていました。
こうして、1955年7月17日に正式にオープンしました。
オープン当日は猛暑日ということもあって、様々な故障やトラブルが発生したようです。
完全に不具合なくオープンするまでに丸3年かかりました。
このころから、ウォルトはアニメーターから実業家へと転身していきました。
オープン当初は11種類のアトラクションしかありませんでした。
不具合が多いにも関わらず、開場1年で400万人の来客がありました。
その後、アトラクションは追加されたり、更新されたりして少しずつ改善されていきました。
その甲斐があり、1950年から1960年の間、アメリカとソ連は冷戦状態に陥っていたにもかかわらず、ソ連の最高指導者であったニキータ・フルシチョフはディズニーランドを訪問することを強く希望しました。
しかし、安全上の管理問題から米国側からディズニーランド訪問を断わりました。
このことに対し、歓迎の晩餐会で苦情を述べたほどでした。
1964年にはディズニーランドと直結された最初のホテルが建設されました。
名前もディズニーランドホテルです。
こうして少しずつ改善され、現代の巨大テーマパークディズニーランドが出来上がりました。
現在ではカリフォルニア、フロリダ、パリ、上海、香港、東京にディズニーランドが建設されています。
最後に
ウォルト・ディズニーは恵まれた家庭環境で育つことは出来ませんでした。
どちらかと言えば不幸な家庭環境で育ったと言っても過言ではないでしょうか。
貧しく、父親から愛情を注がれず、波乱万丈な人生でした。
が、天才的な絵の才能に恵まれ、子供から大人まで楽しむことの出来るアニメ、そして巨大テーマパークを立ち上げました。
そして、世界中の人々に楽しんでもらえるひとつの芸術を創り上げました。
ウォルト・ディズニーのどんな困難にぶつかっても、諦めることのない性分と天才的な絵を描く才能が、彼の人生を救い、世界中の人々から愛される夢にあふれるエンターテイメント世界を築き上げることとなりました。
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