あなたは上杉憲政という人物をご存知ですか?
上杉憲政は名門・山内上杉家の第15代当主で関東管領に就いていた人物です。
また、上杉謙信の養父でもあり、上杉謙信が長尾姓から上杉姓に変えたのは、上杉憲政が上杉姓を与えたからです。
関東管領、そして上杉謙信の養父でもった上杉憲政でしたが、武田氏や北条氏といった強大な大名に翻弄され続けた人生でした。
今回は上杉憲政について
- 上杉憲政の生い立ちとは?
- 上杉憲政の経歴や最後は?
- 【エピソード】上杉憲政の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば上杉憲政の生涯や逸話がわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
NHK大河ドラマ「風林火山」(2006年)では、上杉謙信をあのGacktsさんが演じていました。上杉謙信(毘沙門天)と武田信玄(不動明王)の戦いでしたが、映画「跳んで埼玉」では埼玉と千葉の宿敵の戦いでした!https://t.co/gxfUh8Fyzxhttps://t.co/DAfHgrJNHw pic.twitter.com/vbLaix7tBC
— ツイてるヒロ (@wakuwakusun1) 2019年3月10日
上杉憲政の生い立ちとは?
上杉憲政は大永3年(1523年)に生まれます。
- 父は上杉憲房(関東管領)
- 母は不明
父・上杉憲房が3歳の時に亡くなる
上杉憲政は3歳の時に父・上杉憲房が59歳で亡くなります。
すると、関東管領には憲房の養子で憲政の義兄である上杉憲寛がつきました。
しかし、享禄2年(1529年)から始まった関東享禄の乱によって、山内上杉家内では上杉憲寛派と上杉憲政派の間で内訌が起こります。
結局、上杉憲政派が勝ち、享禄4年(1531年)に上杉憲政は8歳で山内上杉家の第15代当主となり関東管領にも就任しました。
上杉憲政の経歴や最後は?
~北条氏・武田氏に連敗~
上杉憲政は関東管領として関東を治めること目標としていましたが、南には北条氏、西には武田氏、北には長尾氏といった大名がいました。
とくに、南の北条氏にはたびたび領土を脅かされていました。
天文10年(1541年)には、甲斐の武田氏や信濃の村上氏が信濃国小県郡の海野氏領へ侵攻すると、上杉憲政は海野氏の援軍として信濃国へ進行します。
しかし、この間に北条氏が武蔵国へ侵攻し上杉軍は敗れてしまいます。
天文14年(1545年)に上杉憲政は北条氏への対処として、仇敵であった扇谷上杉家の上杉朝定や古河公方の足利晴氏と同盟を結び、また、当時北条氏と敵対関係にあった駿河国の今川義元とも同盟します。
そして、北条方の河越城を大軍で囲みましたが、北条氏康の策略の前に大敗してしまいます(河越城の戦い)。
この戦いで扇谷上杉家が当主・上杉朝定の戦死によって滅亡し、足利晴氏もすぐに降伏、上杉憲政は居城平井城(現在の群馬県藤岡市にあった城)へ逃れるも急速に勢力を落とすことになります。
上杉憲政は勢力の立て直しを図るため、今度は信濃国の村上義清と同盟を結びます。
しかし、今度は甲斐の武田晴信(後の武田信玄)と戦うことになります。
天文16年(1547年)に武田晴信が村上方の笠原氏の志賀城へ攻めると、上杉憲政は笠原氏救援のため信濃国に進軍しますが、小田井原の戦いで大敗してしまいます。
この敗戦で上杉憲政はさらに勢力を縮小することになります。
~越後への逃亡と「関東管領」の譲渡~
河越城の戦いと小田井原の戦いの大敗後、上杉憲政は関東での勢力を衰退させ、さらに家臣が北条氏へ次々と寝返ってしまいます。
天文21年(1552年)に上杉憲政は居城・平井城から越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)の元へ行きます。
越後に入った上杉憲政は長尾景虎を養子にします。
ちなみに、長尾景虎が上杉憲政を受け入れたのは越後支配の正統性と強化のためであり、上杉謙信のイメージである「困っている人を助ける」というものではありません。
長尾景虎に保護された上杉憲政でしたが、今度は長尾景虎の力を借りて関東へ進出します。
永禄3年(1560年)に関東へ進軍した上杉憲政は長尾景虎の力もあり、北条方に寝返っていた元上杉家臣や反北条の佐竹氏や里見氏らとともに北条氏を攻撃します。
北条氏の居城・小田原城まで進軍しますが、堅固な小田原城を落とすことはできませんでした。
永禄4年(1561年)に上杉憲政は小田原からの帰路の途中に鎌倉により、鶴岡八幡宮で長尾景虎に「上杉」の姓と憲政の「政」を与え、さらに「関東管領」を譲渡します。
※長尾景虎は上杉政虎に改名
これ以降、上杉憲政は10年以上史料から見えなくなります。
~上杉家の後継争いと上杉憲政の最期~
天正6年(1578年)に上杉謙信が亡くなると、謙信に実子がいなかったことから、上杉景勝と上杉景虎の間で後継争いが起こります(御館の乱)。
上杉憲政は上杉景虎方につき上杉景勝と戦います。
当初は実家の北条氏や北条氏と同盟を結んでいた武田氏などの支援もあり上杉景虎が有利でしたが、武田氏が上杉景勝方についたことや越後国人の活躍で、上杉景虎方は負けてしまいます。
天正7年(1579年)に上杉憲政は上杉景虎の嫡男・道満丸と一緒に上杉景勝と和睦するために春日山城へ向かいますが道中で殺害されてしまいます(または自害)。
この時、上杉憲政は享年57でした。
名門山内上杉家に生まれ、関東管領であった上杉憲政でしたが、最期は殺害(または自害)という波乱万丈な生涯でした。
【エピソード】上杉憲政の人柄や性格が分かる逸話
上杉憲政は関東管領という地位の高い位置いたのにも関わらず、あまり有名な武将ではありません。
後世は上杉謙信が有名であったため、上杉憲政の名が知られるようになったとも言えます。
悪いイメージが与えられた上杉憲政
また、上杉憲政に悪いイメージを与えるような出来事が『関東古戦録』に書かれています。
『関東古戦録』とは江戸時代に書かれた軍記物で、河越城の戦い(1546年)から北条氏滅亡(1590年)までの間に関東における合戦が書かれています。
この軍記物の中に上杉憲政が北条氏に敗れ居城・平井城から越後へ向かった際の場面があります。
上杉憲政は越後へ向かう際に嫡男の龍若丸を置いていってしまいます。
龍若丸は結局、北条氏に寝返った元上杉家臣によって捕縛され北条氏康が処刑します。
上杉憲政が龍若丸を故意に置き去りにしたのかはわかりませんが、この出来事は上杉憲政の評価を下げた原因でしょう。
しかし、北条氏に対抗するために仇敵であった扇谷上杉氏や古河公方足利氏と手を結んだり、駿河の今川氏と同盟を結んだことは評価されるべきことでしょう。
まとめ 上杉憲政はどんな人?大河ドラマや映画はある?
ここまで上杉憲政について紹介してきました。
まとめてみると
- 上杉憲政は8歳で山内上杉家の当主となり関東管領についた
- 上杉憲政は長尾景虎に「上杉」の姓と「関東管領」を与えた
- 上杉憲政は北条氏や武田氏と戦った
- 上杉憲政は上杉謙信の養父だった
上杉憲政が登場する大河ドラマや映画
- 『天と地と』1969年 大山克巳
- 『武田信玄』1988年 滝田裕介
- 『風林火山』2007年 市川左團次(4代目)
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「上杉憲政の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。
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