太平洋戦争が終結して70年以上が経過しました。8月になると毎年、戦争についての番組が数多く放送されますよね。
絶対に忘れてはいけない、繰り返してはいけない戦争を日本が始めてしまった時の内閣総理大臣は東条英機という人でした。
名前だけは聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
戦争を始めた総理大臣と聞くと、なんだか怖くて悪い人なイメージですよね。
(見た目からも怖そうな感じがしますよね・・・)
しかし、東条英機は実はいい人だったのです。
今回は東条英機の
- 東条英機の生い立ちとは?
- 東条英機の経歴は?
- 東条英機の人柄と性格は?
- 東条英機は実はいい人?
について書いて、本当の東条英機を知ってもらおうと思います!
ポイントは以下の通りです
- 東条英機の生い立ちは、優秀なのに昇進に恵まれなかった父の姿を見て育ったため、自分は軍人として昇進していけるよう努力した
- 東条英機は軍人としてだけでなく、政治家としても華々しい経歴を持っている
- 東条英機は人情味にあふれ、堅い忠誠心を持った男であった
- 東条英機は実は日本国や国民のためを思って行動していたいい人であった
東条英機の生い立ちとは?
1884年(明治17年)に東京で生まれた東条英機。
彼は3男として生まれましたが、長男、次男がすでに他界していたため、実質的には家を継ぐ長男として扱われました。
父親は陸軍教導団出身で、下士官から将校を経て、陸大の一期生を首席で卒業するほど優秀でした。
しかし、出世は遅れてしまい、大将にはなれず、悔しい思いをしました。
東条英機の軍人としての才能は父親譲りだったのです。
東条英機も今で言う小学校、中学校、高校を卒業して、陸軍士官学校に入校します。
軍人生活の始まりですね。
その後、昇進を重ねますが、父が首席で卒業した陸大には2年連続で受験失敗。
結婚や長男誕生などが励みになったのか、3回目のチャレンジで無事に入学が決まりました。
父と同じ大学に入れたことは、東条も誇らしかったでしょう。
しかし、その翌年には、父が他界してしまいます。
東条としては、大学を卒業し、軍人として出世していく姿を見てほしかった思いがありました。
大学を無事卒業した東条は、そこから軍人の道を着実にステップアップしていきます。
歩兵隊の隊長や陸軍の中将などを経て、ついには関東軍の参謀長にまで昇りつめていくのです。
この時、東条は53歳。ここからは、軍人としてだけではなく、政治家としても活躍していきます。
東条英機の経歴は?
一軍人に過ぎなかった東条英機ですが、軍人としての頭角を現し、ついには内閣総理大臣にまで任命されることとなります。
関東軍参謀長に就任して後の経歴は以下の通りです。
- 第10代関東軍参謀長(1937年3月1日ー1938年5月30日)
- 陸軍次官(1938年5月30日ー1938年12月10日)
- 初代陸軍航空総監(1938年12月10日ー1940年7月22日)
- 第50-52代陸軍大臣(1940年7月22日ー1944年7月22日)
- 第40代内閣総理大臣(1941年10月18日ー1944年7月22日)
- 第64代内務大臣(1941年10月18日ー1942年2月17日)
- 第66代外務大臣(1942年9月1日ー1942年9月17日)
- 第53代文部大臣(1943年4月20日ー1943年4月23日)
- 第25代商工大臣(1943年10月8日ー1943年11月1日)
- 初代軍需大臣(1943年11月1日ー1944年7月22日)
まぁ~圧巻の一言です!
陸軍大臣として4年間も務めあげているので、軍人の中での実力、信頼は相当なものだったのでしょう。
そして、何といっても注目してもらいたいのが、内閣総理大臣に就きながら、いくつも大臣を兼任していることです。
東条あらずして日本は成り立たないと言えそうなほど、さまざまな重責を担っていたことがうかがえます。
東条英機の人柄と性格は?
日本の中核としてここまで責任を担うことを許された東条英機はどのような人柄・性格だったのでしょうか?
エピソードを交えながら紹介してみたいと思います。
東条英機は隊長でありながらも人情あふれる性格でした。
このようなエピソードが残されています。
- 歩兵隊長になった際、将校全員の容貌・経歴・家庭環境を暗記してから着任していた。
- 陸大を受験する少尉や中尉には、仕事の負担を減らして受験勉強の時間を与えた。
- 兵卒一人ひとりから直接話を聞き、食事に対しても気を配った。
どうですか?
昭和初期の話ですよ?
隊長が部下に気を遣うなんてあり得なかった時代です。
現在でも、こんな上司だと「どこまでもついていきます!!」っていう気持ちにさせられますよね。
当時、東条は「人情連隊長」と呼ばれていたそうです。
本当にナイスネーミングですよね。
また、堅い忠誠心を持った男でもありました。
内閣総理大臣に任命される際に、天皇から、対米戦争を回避できるよう尽力してほしいと直接指示された東条。
このお言葉を胸に、天皇への絶対的忠誠心を持つ東条は、それまでの開戦派姿勢を改め、和平への道を模索し始めました。
軍人畑でずっと歩んできた東条ですから、開戦を望んでいたとも思われます
が、そこは天皇が絶対ですので、すぐに考えを改め、実行していこうという姿勢を示す。
それができたのは素晴らしいですよね。
東条英機は実はいい人?
甚大な被害をもたらした戦争を始めてしまった内閣総理大臣である東条英機。
「戦争を始めるなんて、さぞかし悪い人なんだろうな」というイメージが少し崩れてきたのではないでしょうか。
東条英機は戦争を始めた時に内閣総理大臣でしたが、戦争を始めたくて仕方がなかったわけではありません。
(もちろん、戦争に絶対反対!という姿勢でもありませんでしたがね・・・)
むしろ逆で、東条英機が内閣総理大臣に任命されたのも、「きっと東条英機なら戦争を回避してくれるに違いない」と期待されていたからなんです。
なぜなら・・・
- 対米開戦を待ち望んでいた陸軍のトップに君臨していたため、陸軍の開戦欲求を抑えることができるのは、東条しかいないと考えられていたから。
- 天皇への忠誠心も強く、開戦を望んでいない天皇の意を汲んで、なんとか開戦を回避するよう努力するだろうと思われていたから。
先ほども書きましたが、堅い忠誠心を持つ東条です
天皇の本心を聞いてしまったからには、それを実行せざるを得ません。
しかし、東条の努力もむなしく、日本国や日本国民を守るために、東条は苦渋の決断で戦争を開戦してしまうのです。
開戦日の未明には、首相官邸の自分の部屋で、皇居に向かって号泣しながら天皇に詫びていたというエピソードも残されています。
結局は多くの犠牲を出して敗戦してしまった大東亜戦争ですが、東条はA級戦犯として死刑にされてしまいます。
確かに開戦した時の総理大臣は東条英機でしたが、彼は戦争回避に尽力していました。
しかし、結果的に戦争が起こってしまい、その責任を取る形で死刑に処せられる・・・なんだか物悲しく、やるせない気持ちにさせられました。
東京裁判において、「この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない」と言っているのも印象的です。
この責任というのは、「国内に対する敗戦の責任である」と述べているのも彼らしさを感じました。
内閣総理大臣として、陸軍大臣として、自分の犯してしまったことへの責任を感じていたのですね。
まとめ 東条英機の性格は実はいい人?経歴と生い立ちがスゴすぎた!
東条英機は実はいい人で、経歴と生い立ちがすごいことに納得していただけたでしょうか?
まとめると以下の通り。
- 東条英機の生い立ちは、優秀なのに昇進に恵まれなかった父の姿を見て育ったため、自分は軍人として昇進していけるよう努力した
- 東条英機は軍人としてだけでなく、政治家としても華々しい経歴を持っている
- 東条英機は人情味にあふれ、堅い忠誠心を持った男であった
- 東条英機は実は日本国や国民のためを思って行動していたいい人であった
私は東条英機のことを「戦争を推し進めたひどい人。戦犯として処刑されて当然だ。」と思っていました。
しかし、調べれば調べるほど、東条英機はいい人で、国や国民のために、苦渋の決断をせざるを得ず、彼自身も苦悩にさいなまれていたことが浮き彫りになりました。
東条さん、勝手に悪者にしててごめんなさい。
東条英機と大東亜戦争は切っても切り離せない存在です
なので、戦争を描いた小説や映画に東条英機はよく登場しています。
東条英機に少しでも興味を持った人は、ぜひ、作品を手に取ってみてくださいね。
- 小説:有馬頼義『左利きの独裁者ー東条英機の悲劇』
- 小説:和田十刻『東条英機ー大日本帝国に殉じた男』
- 映画:「トラ・トラ・トラ」
- 映画:終戦のエンペラー
- 映画:日本のいちばん長い日
これらが有名です。読んでくださり、ありがとうございました。
終戦のエンペラー
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