『新古今和歌集』や『小倉百人一首』に和歌が採録されている西行法師。
若くして出家し、諸国を放浪して和歌を詠んだ人です。
そんな西行法師の
- 生い立ち
- 経歴と作品
- 性格や名前の由来
について、今回は紹介していきます!
こちらを読めば、西行法師の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
西行法師の生い立ちは?
西行法師は1118~1190年、平安末期から鎌倉初期の動乱期を生きました。
西行という名前は出家後の法名で、俗名(本名)は佐藤義清(のりきよ)と言います。
秀郷流武家藤原氏を汲む家柄で、代々衛府に仕えており、裕福な家庭に育ちました。
なんと、祖先には藤原鎌足がいる家系です!
かなり良いお家柄ですよね。
父が亡くなった後、18歳で左兵衛尉(皇室の護衛官)に任ぜられ、鳥羽院の北面の武士となりました。
北面の武士の同僚には、平清盛がいました。
平清盛と同僚だったとは、武士としても実力があったんですね。
北面の武士時代には、歌会が多く開催されており、西行法師の和歌は高い評価を得ていました。
その他、
- 流鏑馬
- 蹴鞠
もかなりの実力を持っていました。
和歌もできて、流鏑馬に蹴鞠まで上手だなんて、まさに文武両道だったわけですね。
ちなみに、北面の武士は採用にルックスも関係していたようなので、西行法師は顔面偏差値も高かったということになります。
西行法師は完璧な人間だったようですね。
ここまでくると、もう超エリートです。
あとは官位を上げていくだけ~なのですが、西行法師は23歳の若さで出家してしまいます。
出家の理由はさまざま噂されています。
- 友人の急死説
- 失恋説
などと言われています。
エリートコースを捨てて突然出家したので、余程のことがあったんでしょうね。
この時、西行法師には妻子がいましたが、妻子を捨てて出家した形になります。
失恋説ならば、妻子からしたら本当にはた迷惑な話ですよね。
ただ、妻子を捨てたと書くと、非常な人間のように聞こえますが、妻子のことはずっと気にかけていたようです。
弟に先を頼み、そっと様子を見に行くなどしていました。
俗世間を捨て出家したはずなのに、捨てきれていない自分に、西行法師は苦悩を重ねたと言います。
この思いも多くの和歌に詠み込んでいます。
さて、名前についてですが、出家後は初め「円位」と名乗っていました。
すぐに「西行」とは名乗らなかったんですね。
出家後の名前は
- 円位
- 西行
- 大本房
- 大宝房
- 大法房
などがあります。
色々な呼ばれ方をしていたんですね。
今は「西行」が一般的ですかね。
出家後は一所に留まることなく、あらゆる所に草庵を立てる生活をしていました。
旅にでることもあり、その先々で思いのままに和歌を詠んでいました。
僧としての活動もしっかりとしていました。
-
落雷の火災で大きな被害を受けた高野山の復興のための寄付を各地で集める
-
源平の動乱で焼失した東大寺の復興のために、奥州藤原氏の所にまでお使いに行く
特に、奥州藤原氏の所を訪ねたのは70歳頃のことでした。
伊勢から岩手までを歩いて往復するのは並大抵の気持ちではなかったのでしょう。
この岩手県までの旅路で、当時征夷大将軍であった源頼朝とも偶然出会っています。
源頼朝の方から西行法師を宿舎に招いているので、それほど西行法師の名は知られていたんですね。
ここでの二人のやり取り等は、後に『吾妻鏡』に記されました。
その数年後、79歳の人生に幕を下ろしました。
出家後の生活は56年にも及んでいますが、草庵に籠っているばかりでなく、四国に行脚したり、岩手県を2度も訪ねたりと、自由なスタイルをとっていたことが分かります。
その時々で詠んだ和歌は、800年近く経った現在でも読み継がれています。
次は、歌人としての西行法師に迫っていきましょう。
西行法師の経歴と作品
それでは、西行法師の歌人としての活躍を見ていきましょう。
先ほども紹介したように、北面の武士時代に詠んだ和歌も評価されていました。
それ以降も、事あるごとに和歌を詠み、生涯で詠んだ和歌は2000首を超えています。
それらは、
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『詞花集』
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『千載集』
-
『新古今和歌集』
などに計265首が集録されました。
特に、『新古今和歌集』には94首も入っており、入撰数第一位となっています。
こんなにも多くの和歌が選ばれたのは、西行法師の和歌が人の心を揺さぶるものだったからでしょう。
もちろん、私家集も作っています。
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『山家集』
-
『山家心中集』
-
『西行法師家集』
-
『聞書集』
などです。
『山家集』が特に有名で、1560首の歌が収録されています。
『山家集』は新古今時代の代表的歌人の私家集である「六家集」の一つに数えられています。
西行法師が生きた時代の和歌の主流は、技巧に凝ったものでした。
しかし、西行法師は技巧にこだわることなく、その時々に感じたことを素直に、素朴な言葉でありのまま表現しました。
特に花鳥風月といった自然を詠んだ和歌が多く、その中でも花と月を愛でた歌人でした。
このような和歌(もちろん、彼の生き方も)が、多くの人々の心を掴み、伝承なども生み出しました。
西行法師の死後500年の時を経て、宗祇や松尾芭蕉が彼を尊敬してやまなかったのも有名な話です。
西行法師の逸話や伝説を集めた説話集には
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『撰集抄』
-
『西行物語』
があります。
『撰集抄』の作者は西行法師と言われています。
多くの勅撰集に選ばれたり、説話集ができたりするなんて、西行法師は和歌ももちろんですが、人柄も皆から愛されていたことが分かります。
源平の動乱期にあって、混乱した世の中で、自分のスタイルを崩すことなく貫き通した西行法師の生き方は、多くの人に感銘を与えたんでしょうね。
【逸話】西行法師の性格や名前の由来は?
「西行」という法名は、阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることが由来だそうです。
仏道に身を投じるからには、目指すところは極楽浄土だったのでしょうか。
きっと極楽浄土に行けているんではないかと思ってしまうような有名な逸話を紹介しますね。
西行法師は、亡くなるずいぶん前に、
願はくは 花のしたにて 春死なん その如月の 望月のころ
という和歌を詠んでいます。
なんだか遺言のような和歌ですよね。
意味は、
願いが叶うならば、桜の下で春に死にたい。2月15日頃に・・・
こんな感じでしょうか。
実際に西行法師が亡くなったのは2月16日だと言われています。
すごくないですか!どんぴしゃですよ!!
願い通りに死ぬことができたんです。
ちなみに、2月15日はお釈迦様が亡くなった日とされています。
大好きな花(桜)が咲き誇る中、お釈迦様の後に続いてきっと極楽浄土にいけたことでしょう。
まさに、西行という法名がぴったりの人であったと言えますよね。
2月15日に桜は咲いていないよ~と思ったあなた!
当時はまだ旧暦ですので、現在の暦でいくと、だいたい3月下旬あたりになります。
なんとか桜は咲いているかな。
まとめ:西行法師はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
西行法師の経歴や作品・生い立ちと名前の由来について紹介しました。
簡単にまとめておきますね。
- 西行法師は元々は北面の武士であり、平清盛と同僚だった
- 西行法師は武術に長けており、武士としてエリートだった
- 西行法師は23歳で突然出家した
- 西行法師は歌人として優れた才能の持ち主だった
- 西行法師は願い通りの最期を迎えることができた
エリート街道を捨てて出家した時には、どうなることかと思いましたが、歌人としての才能を開花させ、後世に大きな影響を与える人になりましたね。
ずっと煩悩を捨てきれず悩んでいたのに、最期は願い通りに迎えることができたことも、彼の行い故でしょうね。
最後に、オススメ作品を紹介しますね!
- 『白道』瀬戸内寂聴
西行法師について書かれた本です。
自らも出家している瀬戸内寂聴さんだからこそ、西行法師に通じるところもあります。
瀬戸内寂聴さんなりの西行法師の和歌の解釈も必見です!
テレビドラマでしたら、
- NHK大河ドラマ 平清盛
に出てきます。
主人公平清盛と出家前の西行法師が親友だったという設定です。
演じているのは藤木直人さん。
イケメンを使っていますね!
以上、「西行法師の経歴や作品・生い立ちと名前の由来について」でした。
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