武田信玄の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

戦国・安土桃山時代

「甲斐の虎」の名で知られる武田信玄。

武田信玄は戦国武将の中でも1位と行ってもいいほど戦が強かったと言われています。

その証拠に戦歴を見てみると72戦49勝3敗20分というように勝利数が多いです。

では、いったい武田信玄の何が強かったのか?

また、どんな戦い方をしたのか?

今回は武田信玄について

  • 武田信玄の代表的な戦とは
  • 【逸話】武田信玄の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】武田信玄の強さはどれくらい?

 

を紹介します。

 

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武田信玄の代表的な戦いとは

武田信玄の代表的な戦い1.川中島の戦い

武田信玄の戦として一番有名なのが川中島の戦いです。

川中島の戦いは11年の間で計5回起こりました。

今回は、中でも一番有名な4回目の戦いを紹介します。

永禄4年(1561年)に武田信玄と上杉謙信の間で起こった戦い(第4次川中島合戦)です。

 

武田信玄は信濃国へ勢力を拡大し、残るは北信濃だけでした。

しかし、北信濃の元大名や豪族は越後の上杉謙信に助けを求め、武田軍と上杉軍は川中島で激突します(八幡原の戦いとも言います)。

両軍の兵力は ※諸説あり

  • 武田軍が2万人
  • 上杉軍が1万3千人

 

と両軍合わせて3万3千もの人が参戦した戦いでした。

 

武田信玄は「啄木鳥戦法」という戦法を使いました。

この戦法は、キツツキが木をつついて木の中にいた虫が出てきたところを食べるように、別働隊(1万2千)が上杉軍の本陣を奇襲し山を下りてきたところを本隊(8千)が待ち構えるというものでした。

 

しかし、奇襲を事前に察した上杉軍はさっさと山(妻女山)を下りてしまいます。

  • 武田軍本隊は兵の差で上杉軍に負けていたため劣勢になります。
  • 兵の数で劣る武田軍本隊は武田信玄の冷静な指揮(鶴翼の陣)でどうにか持ちこたえていました。
  • 一方、別働隊は妻女山から上杉軍がいなくなったことに気づくと、兵を引き返し山を下りていきます。

 

そして、武田軍本隊と上杉軍が衝突し始めてから4時間後に別働隊が戻ってきたため、上杉軍は撤退します。

この戦いの結果、武田信玄は北信濃を手に入れましたが、弟の武田信繁や家臣の山本勘助など多くの将兵が討ち死にしました。

両軍の死傷者は

  • 武田軍が約4千人
  • 上杉軍が約3千人

 

と両軍とも大きな損害を被ることとなりました。

 

武田信玄の代表的な戦い2.三増峠の戦い

永禄12年(1569年)に武田軍と北条軍の間で起こった戦いです。

永禄3年5月19日(1560年6月12日)に桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、後を継いだ今川氏真は政治をほとんどせず今川家は弱体化していきました。

武田信玄は川中島の戦い北信濃を手に入れると、今度は今川家領に侵攻します。

この行為に怒りを露わにしたのが相模の北条氏康でした。

 

理由は武田家・北条家・今川家は同盟(甲相駿三国同盟)を結んでいたため、武田家の一方的な同盟破棄に対してでした。

また、北条氏康は武田信玄の敵でもあった上杉謙信と同盟を結びます。

  • 武田信玄は北条の動きに対して永禄12年(1569年)10月1日に小田原城を包囲します。
  • 小田原城は強固な城であったため、武田軍は攻撃せず包囲から4日後に城下に火を放って撤退します。
  • 北条軍は武田軍の撤退を見ると、秩父や甲州街道にいた北条軍の守備隊に命じ、先回りし三増峠の着陣します。

 

さらに、小田原城から追撃部隊を送り武田軍を挟撃する作戦をとります。

そして10月8日に両軍は激突します(三増峠の戦い、山岳戦)

兵力は

  • 武田軍が約2万
  • 北条軍が約2万(諸説あり)

 

と両軍合わせて4万が激突した戦国時代の中でも大規模な山岳戦となります。

武田軍は敵に高台を取られる形となりますが、ここで武田信玄の戦の上手さが発揮されます。

山岳戦は武田家にとって得意中の得意でした。

武田軍は小田原城から北条軍本隊が来る前に、三増峠に着陣した敵を攻撃することを考えます。

武田信玄は軍を3つに分けます。

 

  • 左翼・・・後詰(救援部隊)の遮断と退却路の確保
  • 中央・・・主力部隊、小荷駄隊(輸送部隊)
  • 右翼・・・武田信玄と旗本

※別働隊・・山県昌景率いる赤備え隊

 

これらの部隊が活躍し(特に左翼は指揮官が討ち死したが後詰を遮断した)、三増峠に着陣していた守備隊の壊滅を聞いた北条軍本隊は撤退します。

最終的には苦戦はしたものの武田軍は勝利しました。

 

【逸話】武田信玄の勝ち戦と負け戦は?

武田信玄の勝ち戦:三方ヶ原の戦い

元亀3年12月22日(1573年1月25日)に武田軍と徳川・織田連合軍との間で起こった戦いです。

 

元亀3年、武田信玄は室町幕府第15代将軍・足利義昭の織田信長討伐命令によって、上洛を開始し(西上作戦)、途中で三河国・遠江国を治めていた徳川家康と戦うことになります。

  • 武田軍は長篠城や二俣城といった徳川方の重要拠点を次々と落としていきます。
  • 一方、徳川家康は二俣城の陥落を受けると浜松城に籠城します。
  • 徳川家康は次は浜松城が攻められると考えていました。

 

しかし、武田信玄は浜松城を攻めず素通りします(わざと素通りした、または、信玄自身が病を抱えていたたため、野戦に持ち込みさっさと倒そうと考えいたと言われています)。

これに対して、徳川家康は浜松城から出陣し武田軍を追撃します。

そして、両軍は三方原で激突します。

兵力は

  • 武田軍が約3万人
  • 徳川軍が約1万人

 

です。

武田軍は三方原という台地に魚鱗の陣で着陣し、徳川軍は敵を囲うように鶴翼の陣で着陣します。

武田軍は半分以下の徳川軍に真正面から攻撃し、開戦からわずか2時間ほどで徳川軍を壊滅させます。

この戦いで武田軍は2百人ほどの死傷者を出しましたが、徳川軍には2千人の死傷者を出させました。

 

武田信玄の負け戦:砥石崩れ

天文19年(1550年)9月に武田信玄と村上義清の間で起こった戦いです。

 

信濃平定を目指していた武田信玄(当時は晴信)は同年7月までに信濃国の中南部まで手に入れ、残るは北部と東部だけでした。

そして、同年9月に北信濃の大名・村上義清の出城である砥石城を攻略するために動きます。

村上義清は2年前の天文17年(1548年)に上田原の戦いで大敗(初めての敗北)を喫した相手でもあり、リベンジ戦でもありました。

砥石城は小さな城でしたが東西を崖に囲まれた天然の要塞で、攻めれる箇所は南西の1カ所だけでした。

兵力は

  • 武田軍が約7000人
  • 村上軍が約500人

 

と圧倒的に武田軍が有利でした。

  • 戦いは武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が崖を登ることで始まります。
  • 村上軍が崖の上からの石を落としたり煮えた湯を掛けるなどの徹底抗戦をしてきたため苦戦を強いられます。
  • 武田軍は1ヶ月ほど城を包囲・攻撃しましたが9月30日には砥石城の攻略を断念し、撤退を開始します。

 

しかし、この撤退戦で武田軍は大きな被害を被ることになります。

10月1日の明け方に村上軍が城から出てきて追撃して来ました。

武田殿軍は村上軍の追撃部隊と12時間ほど戦います。

武田本軍は殿軍の捨て身の戦いによって甲府に戻ることができましたが、横田高松など約1000人が討ち死にしたといわれています。

 

【最強伝説】武田信玄の強さはどれくらい?

武田信玄の強さ1.勝つ見込みがあるときだけ戦う

武田信玄は外交や謀略を巧みに使い、勝つ見込みがつくまで戦いませんでした。

信濃国の諏訪攻め際は、諏訪氏と対立している高遠氏を味方につけて、なるべく敵を少なくして戦っています。

また、諏訪氏を倒した後は高遠氏を倒すなど、とにかく敵を少なくする作戦をとります。

今川家を攻める際には徳川家康と手を組み、さらに今川家臣に寝返り工作を仕掛けたことで、今川勢は武田軍と戦わずに撤退します。

 

武田信玄の強さ2.別働隊を上手く使う

武田信玄は戦術として別働隊を多く使っています。

主な役割としては敵軍の側面から攻撃することです。

特に三増峠の戦いではこの別働隊の働きで勝利します。

別働隊には精鋭部隊を使い、これを率いたのが赤備えで知られる山県昌景です。

 

武田信玄の強さ3.敵を誘い出す

武田信玄は戦いで敵に優位であるように見せかけ、油断しているところを一気に叩くという戦術を使っています。

例えば、信濃守護・小笠原長時と戦った塩尻峠の戦いでは、武田軍は戦意がないようにゆっくりと移動していましたが、夜のうちに敵に一気に近づき、夜が明けると奇襲しました。

他にも、蒲原城の戦いでは、数時間城を攻めて兵を退かせると、城主の清水新七郎が自ら追撃してきたところを討ち取っています。

これらの戦術の根本的な所には『孫子の兵法』に出てくる「風林火山」があります。

  • 疾きこと風の如く   → 風のように早く動き
  • 徐かなること林の如く → 林のように静かに待ち
  • 侵掠すること火の如く → 火のように激しく攻め
  • 動かざること山の如し → 山のようにどっしりと構える

 

まとめ 武田信玄のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで武田信玄の戦いにについて紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 武田信玄は戦う前から勝つように策を講じていた
  • 武田信玄は極力少ない敵と戦うようにした
  • 武田信玄は戦う上で敵を騙すことを考えていた

 

武田信玄の本拠地は甲斐という周辺を山で囲まれた国に生まれました。

甲斐国の人口や領地は他国に比べ少なかったため、兵の数や兵糧も多くありませんでした。

この状況を考慮して、少しでも兵を失わないようにするには、上記に上げた戦術が一番効率の良い戦い方ではなかったのではないでしょうか。

また、武田信玄は大変に人望が厚かったため、有能な家臣が多く集まり、海もない塩もない農地も少ない甲斐国から広大な領土を得るまでに強くなったのではないでしょうか。

最後に、ここまで書いてきたことは『甲陽軍鑑』という江戸時代に書かれた軍学書に書いてあることを元にしてあるため、武田家を美化している部分が多数あり、史実とは少し異なった所もあります。

 

作品

大河ドラマでは『武田信玄』『風林火山』

本は榎本秋さんの『戦国大名の戦術論』がオススメです。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

以上、「武田信玄の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

>>「武田信玄」(全話配信)を見る

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