あなたは高倉天皇という人物をご存知でしょうか。
平安時代末期、第80代天皇として即位した人物で、全盛期を迎えていた平家出身の平清盛政権を支えました。
2012年に放送されたNHK大河ドラマ「平清盛」では俳優の千葉雄大さんが高倉天皇を演じられていたので、知っているという方もいるかと思います。
では平清盛政権を支えた高倉天皇という人物はいったいどのような人物であったのでしょうか。
今回は高倉天皇の
- 生い立ち
- 経歴
- 家系図
- 死因
- 『平家物語』に登場する小督との関係性
についてご紹介いたします。
これを読めば高倉天皇の生い立ちや経歴、死因や小督との関係性について知ることができますよ。
千葉雄大くんは、この役を観てから注目。平家の栄枯盛衰の分岐点となった高倉天皇。#平清盛 #わろてんか pic.twitter.com/432mN5MPDa
— nigoe@奥州街道大田原宿まで踏破 (@nigoe0520) 2017年10月3日
高倉天皇の家系と子供、皇后の名前は?
高倉天皇は平安時代末期にあたる応保元年(1161年)9月23日
- 父・後白河天皇(第77代天皇)
- 母・平滋子(建春門院)
の第7皇子として誕生しました。
母・平滋子は時の権力者であった平清盛の妻・平時子の異母妹であるため、平清盛にとって高倉天皇は義理の甥にあたることとなります。
父の後白河天皇には平滋子(建春門院)以外にも妻を持ち
- 源懿子との間に第一皇子・守仁親王(二条天皇)
- 藤原成子との間に第二皇子・守覚法親王、第三皇子・以仁王
- 坊門局との間に第四皇子・円恵法親王、第五皇子・定恵法親王、第六皇子(僧)・恒恵
- 三条局との間に第九皇子・道法法親王、第十一皇子(僧)・真禎
- 丹波局との間に第八皇子・静恵法親王、第十皇子・承仁法親王
と多くの子供が誕生しています。
高倉天皇は後白河天皇の第7皇子であったため、高倉天皇が天皇の座に即位する可能性は極めて低いものでした。
そのため異母兄である二条天皇が父・後白河天皇から譲位され第78代天皇となりますが、政治主導権を巡って二条天皇と院政を行っていた父・後白河上皇は対立することとなります。
そんな中、永万元年(1165年)7月、父・後白河天皇と対立していた異母兄・二条天皇は23歳の若さで崩御してしまいました。
そうなると、後継者問題が発生します。
天皇となる
亡くなった二条天皇にはまだ幼い息子・順仁皇子(後の六条天皇)がいました。
そのため息子である順仁皇子(後の六条天皇)が次期天皇として、2歳にして永万元年(1165年)12月28日に即位しますが、2歳である六条天皇に政務が務まるはずがありません。
そのため、父・後白河上皇は仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇は無理やり退位させられ、高倉天皇が即位することとなったのです。
この時、高倉天皇は8歳であったとされ、もちろん政務を行うことなどできません。
よって父・後白河上皇が高倉天皇の代わりに政務を行うこととなりました。(院政)
高倉天皇の生涯と死因。小督(こごう)との関係は?
こうして天皇となった高倉天皇は承安2年(1172年)平徳子(後の建礼門院)を中宮として迎えます。
この時、高倉天皇は11歳、平徳子は17歳でした。
中宮に迎えられた平徳子という女性は、平清盛とその妻・平時子の娘です。
平時子は高倉天皇の母・平滋子の姉にあたる人物なので、平徳子は高倉天皇にとって従姉にあたります。
この時代はいとこ同士でも結婚することができたのです。
平徳子を中宮に迎えてから6年後の治承2年(1178年)11月12日になると、第一子である皇子(のちの安徳天皇)が誕生しました。
この頃になると、父・後白河上皇と、叔父・平清盛が政治主導権を巡り対立するようになります。
1度は2人の関係性は緩和されることとなりましたが、最終的には平清盛が父・後白河上皇を幽閉するまでに発展しました。(治承三年の政変)
院政を行っていた父・後白河上皇が幽閉されたことにより院政は停止となったのです。
この頃になると、父・後白河上皇と叔父・平清盛の間で板挟み状態となっていた高倉天皇はストレスを抱えるようになり、体調を崩し始めたとされています。
しかし、院政を行っていた父・後白河上皇が幽閉されるということは、ついに高倉天皇は親政を行うチャンスが到来したということとなります。
この時、高倉天皇は18歳。
即位して11年の間、親政を行うことができなかったので、このチャンスは逃すわけにはいきませんでした。
こうしてやっとの思いで、念願の親政を開始した高倉天皇でしたが、親政を開始した3か月後の治承4年(1180年)2月、息子である皇子に譲位します。(安徳天皇)
高倉天皇は以前から病気がちであったため、自身の死を悟り息子である安徳天皇に譲位したと考えられています。
即位した安徳天皇はこの時まだ1歳2か月でした。
そのため安徳天皇は平清盛の孫でもあるため、平清盛が実質的な権力を握ることとなり、その後も平氏は大活躍することとなります。
安徳天皇に譲位した高倉上皇は院政を開始するも体調は回復せず、譲位した1年後の治承5年(1181年)1月30日に20歳の若さで崩御しました。
小督(こごう)との関係性
小督とは平安時代末期の女性で、高倉天皇の後宮となった人物です。
高倉天皇は中宮に平徳子(建礼門院)を迎えていましたが、そのほかにも
- 典侍・藤原殖子(七条院)
- 准三后・近衛通子
- 典侍・堀河豊子
- 掌侍・平範子
- 宮人・藤原公子(?)
といった女性がいたとされ、これらの女性との間には子供がいました。
小督と呼ばれる女性は藤原通憲(信西)の孫であり、桜町中納言・藤原成範の娘とされています。
伝統楽器の箏(そう)の名手であったようで、もともと公卿・冷泉隆房の愛人でした。
しかし、高倉天皇に気に入られ、寵姫となります。
高倉天皇は平家物語ではどんな人?
そんな小督と高倉天皇の悲恋の物語が『平家物語』に記されています。
高倉天皇には、数人の寵姫がいたとされていますが、そのうちの1人が亡くなってしまいました。
そのため高倉天皇は悲しみに暮れる日々を送っていましたが、そんな高倉天皇に見かねた中宮・平滋子は伝統楽器・箏(そう)の名手、小督を呼びよせ、美しい音色で高倉天皇を慰めます。
しかし、高倉天皇は慰めに来た小督を気に入るようになり、それ以来、小督は高倉天皇の寵姫となったとされています。
こうして高倉天皇の寵姫となった皇后でしたが、中宮・平徳子の父・平清盛は娘を差し置いて小督に惚れこむなんて何事だ。と怒り、小督は平清盛によって宮中から追い出されることとなりました。
宮中から追い出された小督は平清盛の怒りを恐れ、高倉天皇とも連絡をとらなかったとされています。
そのため高倉天皇は源仲国に協力してもらい、密かに小督を呼び寄せ、宮中に戻るよう説得します。
しかし、小督は平清盛の怒りにまた触れることを恐れ宮中に戻ることを渋りましたが、こっそりと宮中に戻り、高倉天皇と愛をはぐくみました。
こっそりと密会していた小督は高倉天皇の子供を妊娠し、治承元年11月(1177年12月)坊門院範子内親王(高倉天皇第2皇女)を出産します。
しかし小督と高倉天皇が密会しているといった情報が漏れ、平清盛は再び激怒し、小督は再び宮中を追い出され、無理やり出家させられたのでした。
その後、小督の消息は分かっていません。
なんとも悲しい話ですが、小督と離れ離れになった高倉天皇はひどく落ち込んでいたとされています。
たしかに中宮・平徳子という女性がおりながら小督に溺れる高倉天皇は平清盛から見れば、腹立たしいかと思いますが、当時、妻以外の女性がいるのは当たり前の時代でしたので、創作話である可能性が高いと考えられています。
まとめ 高倉天皇のドラマや小説はある?
By 藤原為信 – The Japanese book “Tenshi-Sekkan Miei (天子摂関御影)”, Kunai-chō Shoryō-bu (宮内庁書陵部), 1968, パブリック・ドメイン, Link
高倉天皇の生い立ちや経歴、性格や死因、小督との関係性についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 後白河天皇と平滋子の息子
- 8歳で即位
- 平徳子を中宮に迎える
- 安徳天皇の父親
- 病気によって20歳で崩御
- 小督は高倉天皇の寵姫
高倉天皇の生涯についてご紹介しました。
8歳にして天皇となった高倉天皇は11年の時を経てようやく、親政を行うことができましたが、病気を患うと息子である安徳天皇に譲位し、20歳の若さで崩御しました。
少し影の薄い天皇でしたが、平清盛政権を支えた1人とされています。
そんな高倉天皇が登場する有名な大河ドラマは2012年に放送された「平清盛」です。
この作品では
- 高倉天皇を俳優の千葉雄大さん
- 後白河天皇を俳優の松田翔太さん
- 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
- 平滋子を女優の成海璃子さん
- 平徳子を女優の二階堂ふみさん
が演じられています。
また鳥越 碧さんの小説「建礼門院徳子」にも高倉天皇は登場しています。
これを機に高倉天皇に興味を持ったという方は大河ドラマ「平清盛」小説「建礼門院徳子」を見てみてください。
以上「高倉天皇の性格や家系図は?死因や平家物語の小督(こごう)との関係性」についてのご紹介でした。
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