上杉謙信の生い立ちと経歴は?性格やエピソードが面白い!

戦国・安土桃山時代

誰もが1度は聞いたことのある武将上杉謙信。

上杉謙信は後世「越後の龍」と呼ばれ、困った人を助けるなど「義」を重んじた武将として知られています。

今回は上杉謙信について

  • 上杉謙信の生い立ちとは?
  • 上杉謙信の経歴や強さは?
  • 上杉謙信の人柄や性格の面白いエピソード

 

をご紹介します。

こちらを読めば上杉謙信の経歴や性格がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

 

スポンサーリンク

上杉謙信の生い立ちとは?

享禄3年1月21日(1530年2月18日)、越後守護代・長尾為景の四男として越後国の春日山城で生まれます。

幼名は虎千代です(寅年生まれ)。

 

天文5年(1536年)、8月に父・為景が隠居し兄・長尾晴景が家督を継ぐと、虎千代は林泉寺に入門にします。

 

天文12年(1543年)、出家し長尾景虎と名乗ります。

 

天文13年(1544年)、越後の豪族が反乱を起こし長尾景虎のいる栃尾城に攻めてきます。

長尾景虎はこの時15歳でしたが鎮圧します(栃尾城の戦い)。

 

天文14年(1545年)、越後守護・上杉定実の老臣・黒田秀忠が反乱を起こし、長尾景虎の次兄が殺されます。

長尾景虎は上杉定実の命令で黒田秀忠を攻撃し降伏させます(黒滝城の戦い)。

 

天文15年(1546年)、黒田秀忠が再び反乱を起こすと、今度は黒田家を滅ぼします。

また、長尾当主・長尾晴景に不満を持っていた国人達が、長尾景虎を擁立する動きを見せ、長尾景虎は兄との関係が悪くなります。

 

天文17年(1548年)、家臣の間で長尾晴景派と長尾景虎派に分かれ争うようになります。

しかし、越後守護・上杉定実の仲介により、長尾景虎は兄の養子となり家督を譲られます。

 

上杉謙信の経歴や強さは?

天文19年(1550年)、越後守護・上杉定実が後継者を残さずに亡くなったため、将軍・足利義輝によって越後の国主として認められます。

しかし、長尾一族の長尾政景(上田長尾家)が不満を持ち反乱を起こします。

 

天文20年(1551年)、長尾景虎は長尾政景の居城・坂戸城を攻撃し降伏させます(坂戸城の戦い)。

降伏はしたものの長尾景虎の姉・仙桃院が長尾政景に嫁いでいたため命は助けました。

これにより長尾景虎は22歳で越後国を統一しました。

 

天文21年(1552年)1月、関東管領・上杉憲政が相模の北条氏に攻められ越後に逃れてきます。

同年8月、家臣を関東に派遣し上杉憲政の居城・平井城を奪還します。

また、この年には武田晴信(信玄)の信濃侵攻によって、信濃守護・小笠原長時が助けを求めてきます。

 

天文22年(1553年)、北信濃の村上義清が武田家との抗争に敗れ援軍を要請してきます。

長尾景虎は信濃国に出陣し武田軍と戦い優勢に進めていましたが、上洛の予定があったため越後へ引き上げます(第一次川中島の戦い)。

同年9月に初めての上洛を果たし後奈良天皇と足利義輝に拝謁します。

 

天文24年(1554年)、翌年に反乱を起こした北条高広の居城・北条城を落とします(北条城の戦い)。

この反乱は武田家の働きかけとわかると信濃へ出陣し武田軍と対峙します(第二次川中島の戦い)。

この戦いは今川義元の仲介によって武田家と和睦します。

 

弘治2年(1556年)、長尾景虎は家臣同士の争いや国衆の対応に疲れ突如として出家し高野山へ向かいます。

しかし、この間に武田家の調略によって家臣・大熊朝秀が反乱を起こすと、越後へ戻り大熊軍を打ち破ります(駒帰城の戦い)。

 

弘治3年(1557年)、武田晴信が盟約を破り信濃豪族・高梨政頼を攻撃すると、長尾景虎は激怒し再び出陣します(第三次川中島の戦い)。

 

永禄3年(1560年)、神保氏から攻撃を受けた越中の椎名氏から援軍要請がくると、長尾景虎は出陣し神保氏の居城・富山城を落とします。

 

永禄4年(1561年)

  • 3月、桶狭間の戦いで今川家が弱体化すると、今川家と同盟を結んでいた北条家の小田原城へ出陣します(小田原城の戦い)。
  • 閏3月、保護していた上杉憲政から「関東管領職」「山内上杉姓」・「政」の字をもらい、関東管領の就任とともに名を上杉政虎に改名します。
  • 同年8月、北信濃に武田軍が進軍してきたため、上杉政虎も出陣し川中島で激突します(第四次川中島の戦い)。
  • 同年12月、将軍・足利義輝から「輝」の字をもらい名を上杉輝虎に改名します。

 

永禄5年(1562年)から永禄7年(1564年)の間に関東平定のため関東の諸大名や諸勢力と戦います。

 

永禄7年(1564年)8月には再び武田軍と対峙します(第五次川中島の戦い)。

 

永禄8年(1565年)から永禄10年(1567年)に再び関東へ出陣しますが、

関東平定は上手くいかず領土は東上野(現在の群馬)までしか広げられませんでした。

 

永禄11年(1568年)、家臣の本庄繁長が謀反を起こすが鎮圧します(本庄繁長の乱)。

 

永禄12年(1569年)、武田家への牽制のため北条氏と同盟を結びます(越相同盟)。

 

元亀元年(1540年)、12月に法号「不識庵謙信」と称します。

 

元亀3年(1572年)、武田信玄と戦っていた織田信長と同盟を結びます。

 

天正元年(1573年)、椎名氏や神保氏を討伐して越中を平定します。

 

天正4年(1576年)、将軍・足利義昭の命令で武田・北条両家と和睦し、織田包囲網に参加します。

 

天正5年(1577年)、8月から9月にかけて織田軍と戦い勝利します(手取川の戦い)。

 

天正6年(1578年)、遠征の準備中に脳溢血で亡くなります。享年49歳でした。

 

上杉謙信の人柄や性格の面白いエピソード

上杉謙信のエピソード1.敵に塩を送る

上杉謙信と聞いてまず思い浮かぶのが「敵に塩を送る」です。

これは武田信玄が今川家と北条家から塩止めを受けていたときに塩を送ったのが語源とされています。

  • 意味は「敵が苦しんでいるときに、かえってその苦境を救ってやる」です。
  • その証拠に、武田勝頼が長篠の戦いで敗れて力を失った際に、家臣の一部は信濃に攻め込むように進言しますが、
  • 上杉謙信は「人の落ち目を見て攻めるのは本意ではない」と言ったといわれています。

 

上杉謙信のエピソード2.家臣によく裏切られる

上杉謙信はよく家臣に裏切られています。

理由としては上杉謙信自身に野心がなく領土を広げる気が無かった事にあります。

  • 当時、武士は戦で勝って広げた領土を家臣に褒美としてあげるのが普通でした。
  • しかし、上杉謙信は人助けのために戦っていたため、戦に勝っても褒美がない家臣達の中には不満を持つた人も多くいたでしょう。
  • また、上杉謙信自身への不満だけでなく、周辺の大名・武田信玄や北条氏康といった野心の塊の調略によるものも多々ありました。

 

裏切られる事が多かった上杉謙信ですが大抵は許していました。

 

上杉謙信のエピソード3.正妻を娶らなかった

上杉謙信は正室がいなかった武将としても有名です。

理由ははっきりとはしていませんがいくつか上げると

  • 毘沙門天の教えで妻帯禁制を守った
  • 若い頃に好きだった女性と家臣の反対で引き裂かれその女性が自殺したため
  • 母と姉の高潔な人格だったため自分自身が求めていた女性がいなかった
  • 男性に興味があった
  • 上杉謙信は女性だった

 

という説が上げられています。

そのため、上杉謙信には実子がいませんでした。

実子がいなかったため養子をもらっていましたが、上杉謙信の死後、養子との間で後継ぎ争いが起こってしまいます。

 

まとめ 上杉謙信はどんな人?分かりやすいおすすめ作品

ここまで上杉謙信について紹介してきましたがいかがでしたか?

まとめてみると

  • 上杉謙信は若い頃から前線で戦っていた。
  • 上杉謙信は困っている人を助けた
  • 上杉謙信は卑怯なことを嫌った
  • 上杉謙信は不要な戦は避けていたが戦う時は強かった

 

上杉謙信は正義感が強く人情に厚い人物でした。

一方、戦争になるとその統率力でほとんどの戦いに勝利します。

  • また、上杉謙信は大酒吞みでもありました。
  • この大酒吞みの影響で脳溢血で亡くなってしまいます。
  • 戦争をしたくない気持ちと戦争せざる終えない現実との矛盾を紛らわしていたのでしょう。

 

作品

  • 大河ドラマでは『天と地と』・『風林火山』・『天地人』
  • 本では相川司さんの『上杉謙信ー信長も畏怖した戦国最強の義将』

 

がオススメです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「上杉謙信の生い立ちと経歴は?性格やエピソードが面白い!」でした。

コメント