直江兼続の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

上杉景勝の側近として活躍した直江兼続。

直江兼続は内政・外交で才能を発揮し、豊臣秀吉や徳川家康と渡り合いました。

また、人生の半分は御館の乱や大坂の陣に参戦し上杉軍の軍師的な役割をしました。

今回は直江兼続について

  • 直江兼続の代表的な戦とは
  • 【逸話】直江兼続の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】直江兼続の強さはどれくらい?

を紹介します。

こちらを読めば直江兼続の強さや戦がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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直江兼続の代表的な戦とは

直江兼続の代表的な戦い1.御館の乱

御館の乱とは天正6年(1578年)に起こった上杉景勝と上杉景虎との間で起こった上杉家の後継争いです。

上杉謙信には実子がいなかったことから養子を迎えていましたが、養子にも後継者を決めていなかったことからこの争いが起こりました。

御館の乱は上杉景勝が春日山城本丸を占領し金庫や兵器庫を抑える他、謙信が使っていた印判(はんこ)など手に入れ文書を発行できる道具も手に入れます(謙信の後継者となったことを国内外に知らす)。

一方、上杉景虎は実家の北条氏やその同盟国の武田氏・伊達氏らなど外部勢力からの支援がありました。

しかし、北条氏は関東の佐竹氏や宇都宮氏と争っていたこと、また伊達氏は上杉景勝方の北越後の新発田氏の奮戦などもあり春日山城へ行けませんでした。

さらに、武田氏が景勝と同盟を結んだこと(景勝が金で武田に同盟を結ばせる)で形勢が逆転します。

上杉景勝は景虎方の援軍を排除し御館の乱に勝利しました。

直江兼続の代表的な戦い2.小田原征伐

小田原征伐とは天正18年(1590年)に豊臣秀吉が相模国の北条氏を征伐した戦いです。

当時の当主・北条氏政(北条氏康の次男)が秀吉からの上洛要請を無視したため、豊臣秀吉は征伐を決意します。

※北条氏政は反豊臣の徳川家康や伊達政宗らと手を組み抵抗しようと考えていた

しかし、徳川と伊達は秀吉に屈服する。北条氏政が降伏しなかったのは、鎌倉幕府執権で あった名門北条氏の名跡を継いだことと、百姓上がりの秀吉に従いたくなかったといわれ ています。

直江兼続は上杉景勝とともに豊臣軍として前田利家・真田昌幸らと北方から攻めます。

武蔵国の松山城や八王子城を落とす活躍をします。

結局、豊臣秀吉は北条氏を討伐し天下統一を成し遂げます。

直江兼続のエピソード3.大坂の陣

大坂の陣とは徳川家康が豊臣氏を滅ぼすために大坂城を攻撃した戦いです。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の2回行われました。

慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康は慶長19年(1614年)に豊臣氏の大坂城を攻撃します。

直江兼続と上杉景勝は幕府方として参戦し、冬の陣の際には大坂城北東部・鴫野村(しぎのむら)にあった豊臣方の陣(井上勢)を攻撃します(鴫野の戦い)。

上杉勢は丹羽勢や榊原勢とともに攻撃し、一時は豊臣軍の援軍が来て押し返されるもこれを撃破します。

大坂夏の陣にも参戦しましたが戦闘はありませんでした。

【逸話】直江兼続の勝ち戦と負け戦は?

直江兼続の勝ち戦:新発田重家の乱

この乱は北越後に勢力を持っていた揚北衆(あがきたしゅう、越後北部にいた国人豪族 中条氏・色部氏・本庄氏など)の1つである新発田氏が上杉氏に対して起こした反乱です。

この乱は天正9年(1581年)6月から天正15年(1587年)10月の約6年続きます。

~揚北衆とは~

揚北衆は前にも書いたように越後北部いた国人豪族らのことを指します。

もともと鎌倉時代に武蔵国の秩父氏・相模国の三浦氏・近江国の佐々木氏らが地頭として越後北部に入り与えられた領地を治めたことが揚北衆の起源といわれています。

これら地頭となった氏族は後に多くの分家を出し新発田重家が出た新発田氏は佐々木氏の分家となります。

南北朝時代になると揚北衆は越後国守護・上杉氏とその守護代・長尾氏と対立するようになり、戦国時代の天文11年(1542年)から起こった天文の乱(伊達氏の父子間の争い→越後守護上杉氏に養子を送る問題)では、揚北衆内でも養子を送る派と送らない派に分かれて分裂します。

そして、越後守護上杉定実が後継者がいないまま亡くなり上杉家が断絶すると、守護代であった長尾景虎(後の上杉謙信)が越後国の領主となり揚北衆も次第に長尾家に組み込まれていきます。

しかし、揚北衆は昔から独立性が強く長尾氏の完全な家臣ではありませんでした。

~新発田重家の反乱~

新発田重家は新発田氏の次男であったため五十公野(いじみの)氏を継いでいました。

兄の新発田長敦とともに上杉謙信に仕え川中島の戦いでは武田家臣・諸角虎定を討ち取る活躍を見せます。

上杉謙信の死後に起こった御館の乱では上杉景勝方として参戦し上杉景虎の援軍として来た伊達軍や蘆名軍の押さえとして活躍します。

御館の乱は景勝が勝ちましたが、新発田氏は十分な報酬を得られず、さらに兄の長敦が病死したことによって重家は新発田氏を継ぎましたが上杉家への不満は増していきます。

そして、新発田重家は上杉家を倒そうとする伊達氏や蘆名氏の工作もあり天正9年(1581年)に反乱を起こし新潟城で独立します。

~新発田と戦い連敗する~

天正10年(1582年)2月に上杉氏は新発田氏討伐のため新発田氏と同じ揚北衆の本庄氏らに攻撃をさせますがあっという間に負けてしまいます。

さらに同年4月に入ると西と南から織田軍が越後へ向けて進軍してきたため上杉家は三方面から脅威をさらされることになります。

同年6月の本能寺の変によって織田軍が撤退し西・南の脅威がなくなります。

天正11年(1583年)の8月に再び新発田氏を攻めますが、湿地帯での戦闘とさらに豪雨の影響で上杉軍は混乱し上杉景勝も討ち取られそうになるほどの被害を受けます。

天正12年(1584年)8月にも出陣し新発田方の水原城を攻撃しますが、直江兼続の部隊が新発田重家の攻撃によって壊滅し、上杉軍はまた負けてしまいます。

さらに、新発田重家が越中国(富山)の佐々氏と手を組み上杉軍を挟撃する態勢を整えます。

~秀吉への臣従と新発田氏の滅亡~

新発田氏の討伐に苦戦していた上杉氏でしたが、本能寺の乱後に勢力を伸ばした羽柴秀吉が柴田勝家らを滅ぼすと、上杉景勝は秀吉に接近し、秀吉が徳川家康と戦った小牧長久手では秀吉方として参戦し佐々氏の城を落とします。

また、新発田氏を背後から支えていた伊達氏の当主が伊達政宗に変わると、政宗は同盟を結んでいた蘆名氏と対立するなど、新発田重家は支援を受けれなくなります。

これを好機とみた上杉景勝は天正14年(1586年)に上洛し正式に羽柴秀吉への臣従を誓い、天正15年(1587年)に一万の軍を率いて新発田氏を討伐しに行きます。

上杉軍は新発田氏の居城・新発田城を取り巻いていた赤谷城などの城々を攻略します。

そして、同年10月に新発田城を落とすことに成功し新発田重家は自害しました。

新発田氏の滅亡によって上杉家は再び越後統一をしました。

直江兼続の負け戦:長谷堂城の戦い

長谷堂城の戦いとは慶長5年(1600年)に出羽国(山形県と秋田県)を舞台に上杉軍と最上・伊達連合軍の間で起こった戦いです。

別名は慶長出羽合戦で北の関ヶ原の戦いとも呼ばれています。

~戦いまでの経緯~

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の1人であった徳川家康が台頭し豊臣政権内で勝手な振る舞いをし始めます。

そんな中、家康と同じく五大老であった上杉景勝は家康の行動に不満を持ち、徳川家康の上洛命令を無視します。

また、直江兼続は「直江状」を家康へ送り、これを呼んだ家康は激怒し慶長5年(1600年)6月16日に上杉討伐の軍を動かします。

直江兼続と上杉景勝は徳川軍の侵攻への対処をするため準備を始めます。

しかし、同年7月2日に石田三成が家康討伐の軍を動かすと、徳川家康は西へ反転し畿内(京周辺)へ向かいます。

家康の反転によって窮地を脱した上杉家は同年9月8日に東軍方の最上家を攻撃します。

この最上攻撃の総大将となったのが直江兼続でした。

上杉軍は兵力で勝っていたため、同月12の畑谷城包囲を皮切りに同月18日までには最上方の城10以上を落とします。

そして、最上家本拠の山形城の手前にある長谷堂城を包囲します。

~長谷堂城の戦い~

長谷堂城の包囲は同月15日から始まり、その後、攻撃に作戦を変え長谷堂城を攻撃します。

両軍の兵力は

  • 上杉軍が約1万8千
  • 長谷堂城守備兵が約1千

と上杉軍は圧倒的に優勢でした。

当時、城を落とす上で必要な兵の数は敵の3倍といわれていますが、この時は10倍以上あったため落としたも同然でした。

しかし、長谷堂城主・志村光安の率いた守備兵の奮戦によって城攻めは困難を極めます。

さらに長谷堂城周辺は深田であったため兵をはじめ馬までもが足を取られ行動が遅くなっていました。

そこへ、志村光安が結成した決死隊(全滅するリスクがある)200によって上杉軍の春日隊が夜襲を受けます。

上杉軍は混乱し同士討(味方同士で攻撃する)するなど250以上の犠牲者を出します。

この決死隊を率いたのが最上家臣で副将格の鮭延秀綱で、この戦いぶりを見た直江兼続は秀綱を「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と評します。

この後、体勢を立て直した直江兼続は城周辺の田畑を刈り取り(刈田狼藉)城兵を挑発します。

しかし、この挑発は全く聞かず、逆に志村光安からは「笑止」という手紙を送られます。

上杉軍が城の攻略をもたもたしている間に最上への援軍として同月21日に伊達軍3千が来てしまいました。

また、同月25日は山形城から当主の最上義光が出陣します。

伊達軍の援軍が来ても兵力で勝っていた上杉軍は同月29日に総攻撃を仕掛けますが、志村勢の奮戦によって上杉家臣の上泉泰綱を失います。

さらに、同日には関ヶ原の戦いで西軍が負けたという知らせを受け直江兼続は撤退を決めます。

~撤退戦~

直江兼続は同年10月1日に撤退を開始しますが、最上・伊達連合軍が追撃してきます。

上杉軍は追撃部隊を迎え撃ちます。

この迎撃戦で直江兼続は殿軍を率いて戦い、最上義光の甲冑に弾があたるなど、激戦になったと言われています。

上杉軍は前田利益(前田慶次)らの善戦もあり同月4日に米沢城へ帰還しました。

撤退後、上杉家は慶長6年(1601年)に上洛し家康に謝罪し徳川家に忠誠を誓いました。

【最強伝説】直江兼続の強さはどれくらい

~直江兼続は実際は戦が上手くなかった~

2009年の大河ドラマ『天地人』の影響で大変人気となった直江兼続。

直江兼続が人気となった理由としては上杉家の軍師としてイメージがついたからでしょう。

しかし、実際の直江兼続は軍師からはほど遠いような武将でもありました。

先程も書いたように、長谷堂城の戦いでは敵の10倍以上の兵を率いていながら城を落としせなかったこと、また、新発田氏討伐の際も直江兼続の部隊が攻撃を受けて壊滅するなど、直江兼続はあまり戦は上手くなかったように思えます。

~戦が上手くなくても謙信のような武人を目指した~

戦はあまり上手くなかった直江兼続でしたが、5歳の時に初めて上杉謙信の姿を見て、それ以降謙信を尊敬していました。

自分が尊敬していた上杉謙信は仏教を深く信仰し、謙信は自身のことを「毘沙門天の化身」として周囲に言っていました。

毘沙門天は仏教の武神でした。

この姿を見た直江兼続は自分も上杉謙信のようになりたいと思い、毘沙門天と同じ武神であった愛染明王を崇拝します。

さら自分の兜に「愛」の字をいれました。

直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」

~直江兼続は戦ではなく内政で本領発揮した~

戦ではあまり活躍はしませんでしたが、直江兼続が得意としたのが内政でした。

豊臣秀吉の臣下となった上杉家は直江兼続が中心となり、戦乱によって荒れた越後を立て直します。

  • 新田の開発
  • 青苧(あおそ)と呼ばれる衣類用繊維の下となるカラムシの生産

会津への国替え後も朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備しました。

江戸時代に入り米沢へ国替えしても兼続は内政に力を入れます。

  • 堤防(直江石堤)を作り治水工事を進める
  • 新田開発をし石高を上げる
  • 殖産興業や鉱山の開発を進める

これらは直江兼続の功績と言っていいでしょう。

まとめ 直江兼続のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで直江兼続について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 直江兼続は小田原征伐や大坂の陣など有名な戦に参戦した
  • 直江兼続は戦をするのは得意ではなかった
  • 直江兼続は内政に才能を発揮した

おすすめ作品

大河ドラマでは

  • 俳優の妻夫木聡さんが演じた『天地人』2009年
  • 俳優の村上新吾さんが演じた『真田丸』2016年

本では

  • 火坂雅志さんが書いた『実伝 直江兼続』
  • 童門冬二さんが書いた『小説 直江兼続 北の王国 全一冊』

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上「直江兼続の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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