あなたは安土桃山時代に活躍した狩野永徳と呼ばれる絵師をご存知でしょうか。
狩野永徳の残した「聚光院障壁画」「洛中洛外図屏風」は国宝にしていされているため、狩野永徳を知っている方も多いかと思います。
狩野永徳の所属した狩野派は、安土桃山時代の安土桃山文化の一端を担う絵画集団でした。
では狩野永徳は一体どのような絵師であったのでしょうか。
今回は狩野永徳の
- 経歴
- 性格
- 代表作品
- エピソード
をご紹介いたします。
これを読めば、狩野永徳の経歴や性格、代表作品やエピソードを知ることができますよ。
狩野永徳の生い立ちと生涯は?
狩野永徳は天文12年(1543年)、京都の狩野松栄の長男として誕生します。
狩野派とは室町幕府の御用絵師であった狩野正信から始まった専門画家集団です。
父・狩野松栄は、絵画集団・狩野派の1人で、狩野派の祖・狩野正信は父・狩野松栄の祖父にあたります。
つまり狩野井永徳から見ると
- 狩野松栄は父
- 狩野派2代目・狩野元信は祖父
- 狩野派の祖・狩野正信は曽祖父
となります。
由緒ある狩野一族に誕生した永徳は、誕生した時から将来は決まっていたようなものでした。
天文21年1月29日に10歳の永徳が祖父・狩野元信と共に将軍・足利義輝に拝謁したという記録が「言継卿記」に残されています。
この記録以外の永徳の幼少期に関する記録は残されていません。
狩野派の祖である狩野正信と祖父・狩野元信は、室町幕府8代将軍足利義政の御用絵師として仕えていました。
まだ10歳の永徳が祖父・狩野元信と共に将軍・足利義輝に拝謁したのは、永徳が将軍・足利義輝の御用絵師として仕えることを期待されていたからだ、ということがわかります。
絵師・狩野永徳の経歴。有名な代表作品。
永徳がいつ、絵画制作を始めたのかは分かっていませんが、祖父・狩野元信から絵を学び、永徳が24歳の永禄9年(1566年)に父・狩野松栄とともに大徳寺聚光院の障壁画の制作を行いました。
この大徳寺聚光院の障壁画で永徳が描いたのは
- 「花鳥図」16面
- 「琴棋書画図」8面
とされています。
永禄9年(1566年)の永徳が24歳の時に制作されたとされていますが、天正11年(1583年)永徳が41歳の時に制作されたのではないか。とも考えられています。
その後、永禄10年から11年(1567年から1568年)には公家・近衛前久の屋敷の障壁画を制作します。
元亀2年(1571年)になると茶や能など、様々な室町文化を好んでいた大友宗麟に招かれ、
- 公家・久我晴通
- 臨済宗の僧侶・怡雲宗悦
- 装剣金工師・後藤徳乗
- 薬師・後藤徳乗
とともに、豊後国に下向し、永徳は臼杵丹生島城の障壁画の制作を行いました。
大友宗麟は狩野派の絵師・臨済宗の僧・装剣金工師・薬師と様々な各分野の名人たちを招いたのですね。
天正2年(1574年)頃になると、国宝に指定されている「洛中洛外図屏風」を制作します。
この「洛中洛外図屏風」はもともと、将軍・足利義輝によって依頼され制作されたものでした。
しかし、将軍・足利義輝は「洛中洛外図屏風」が完成する前に亡くなってします。
注文者不在のままとりあえず完成した「洛中洛外図屏風」は、織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放した後、信長の手に「洛中洛外図屏風」は渡り、上杉謙信に贈られました。
天正4年から7年(1576年から1579年)には自身の弟・狩野宗秀に狩野家の屋敷を譲り渡し、信長に依頼され安土城の障壁画の制作に取り掛かります。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって信長は自害します。
この時、豊臣秀吉は高松城にいたため本能寺の変を聞きつけると、すぐさま畿内へと戻るため、毛利輝元と急遽、和睦を結びその証として永徳の作品「唐獅子図屏風」が贈られました。
この作品は非常に大きな作品であるため、元は
- 大阪城本丸表御殿
- 聚楽第
などの障壁画であったのではとされています。
その後、豊臣家から
- 天正11年(1583年)大坂城の障壁画
- 天正14年(1586年)聚楽第の障壁画
の制作を依頼されます。
このように永徳は、信長、秀吉から重用されていました。
- 天正17年(1589年)には後陽成天皇の内裏の障壁画
- 天正18年(1590年)には八条宮家の障壁画
の制作を行います。
天正18年(1590年)永徳は東福寺法堂の天井画の龍図の制作途中で病に倒れ、48歳で亡くなりました。
この病とは、立て続けに障壁画の制作を行っていた永徳であったので、いまでいう過労死とされています。
このように永徳だけが、忙しかったわけではありません。
永徳だけではなく、狩野派の絵師たちはこのように依頼を受けると多くの障壁画を制作しています。
狩野派は膨大な障壁画の依頼を引き受ける画派であったため、多くの狩野派絵師たちは専門の技術を学び、たくさんの御用絵師たちを輩出しました。
そのため、狩野派の作品には絵師としての個性が見られないという意見もあります。
狩野永徳の代表作品
狩野永徳は様々な障壁画の制作を依頼されていました。
その中でも永徳の代表作品とされる作品をご紹介いたします。
狩野永徳の代表作品1:「聚光院障壁画」のうちの「花鳥図」
By Kanō Eitoku (狩野永徳) and his father Kanō Shōei (狩野松栄) – [1], パブリック・ドメイン, Link
「聚光院障壁画」は国宝に指定されています。
この障壁画は46面からなり、その中で永徳は
- 「花鳥図」16面
- 「琴棋書画図」8面
を描きました。
制作時期は
- 永禄9年(1566年)
- または天正11年(1583年)
とされています。
狩野永徳の代表作品2:「洛中洛外図屏風」
By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン 05:15, 17 April 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link
By 投稿者がファイル作成 – ブレイズマン 05:12, 17 April 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link
天正2年(1574年)織田信長が上杉謙信にこの作品を贈ったことから「洛中洛外図屏風 上杉本」とも言われています。
京都の洛中と洛外を描いた作品で、この作品の中には約2,500人もの人物が細かく描かれました。
永徳だけではなく多くの絵師が「洛中洛外図屏風」を描いています。
狩野永徳の代表作品3:「唐獅子図屏風」
By 狩野永徳 – [1], パブリック・ドメイン, Link
岩間を歩く獅子の姿が描かれた作品です。
秀吉が毛利輝元に和睦の証として贈った作品とされ、その後、毛利元徳によって明治21(1888)年に皇室に献上されました。
よって宮内庁三の丸尚蔵館に保管されています。
【人柄・性格エピソード】織田信長や長谷川等伯との逸話
永徳は将軍のみならず、織田信長や豊臣秀吉にも重用されていました。
信長との逸話
信長に絵の才能を認められた永徳の作品「洛中洛外図屏風」は信長によって上杉謙信に贈られ、また信長から安土城の障壁画の制作など依頼されました。
このように信長から信頼されていた永徳は「織田信長像」と呼ばれる信長の肖像画を描きます。
軸木の墨書によると天正12年(1584年)5月に制作され、享保17年(1732年)12月に改修したとされています。
しかし、この肖像画は天正12年(1584年)5月に制作されたときに、大幅な描き直しの跡があることが判明しました。
この天正12年(1584年)5月とは信長の3回忌の直前にあたり、それに合わせ肖像画が制作されたと考えられています。
喪主は、豊臣秀吉でありましたが、この頃、秀吉は小牧・長久手の戦いで忙しかったため、喪主は信長の側室・鍋に代行されたと推測されています。
喪主の代行を行った信長の側室・鍋が永徳に信長の肖像画を依頼したとされていますが、完成した肖像画を見た秀吉が肖像画にクレームを付けたため、大幅な書き直しが急遽行われることとなりました。
享保17年(1732年)12月に改修された理由は、信長150回忌の翌年であったため改修されました。
長谷川等伯との逸話
同時期に活躍した絵師・長谷川等伯は永徳のライバルとされています。
長谷川等伯とは、天文8年(1539年)に現在の石川県七尾市である能登国で誕生した絵師です。
永徳よりも4歳年上の絵師となります。
地方絵師であった等伯が京都で活動するようになると、天皇の奥方の住まいである仙洞御所対屋障壁画の制作を秀吉の家臣から依頼されます。
- 一地方絵師の等伯が宮中での障壁画の制作を依頼されるなど、京都で最も大きな画家集団である狩野派の1人であった永徳はどうしても許せませんでした。
- 狩野派は、宮中での仕事を多く請け負っていたので、地方絵師に仕事をとられるというのは、とっても屈辱的な出来事であったと思います。
- そこで、永徳は等伯を仙洞御所対屋障壁画の制作から外すよう要請します。
永徳の要請を受けた秀吉の家臣たちは、幕府御用達の絵画集団である狩野派からの要請を断ることはできません。
この永徳の働きによって等伯への仙洞御所対屋障壁画の制作の依頼は取り消しとなりました。
永徳のこのような行いは少しズルい気もしますが、地方絵師・長谷川等伯の実力を恐れていたことが分かります。
このようなことから、永徳と等伯はライバルとされるようになりました。
まとめ 狩野永徳のドラマや映画はある?
狩野永徳の経歴や性格、代表作品、エピソードのご紹介でした。
簡単にまとめると
- 専門画家集団一家に誕生
- 祖父・狩野元信から絵を学ぶ
- 父と共に大徳寺聚光院の障壁画を制作
- 信長、秀吉に重用される
- 東福寺法堂の天井画の龍図の制作途中で過労死によって48歳で亡くなる
- 信長の肖像画を描く
- 長谷川等伯とはライバル関係であった
狩野永徳は、安土桃山文化の一端を担った人物でした。
専門画家集団である狩野派の中で、絵画知識を学び多くの作品を残した永徳でしたが、長谷川等伯という地方絵師のライバルの存在は大きかったと思います。
そんな狩野永徳が登場するドラマや映画は残念ながらありませんでしたが、直木賞受賞作品である安部龍太郎さんの小説「等伯」に永徳は登場しています。
この作品は長谷川等伯の生涯を描いた作品ですが、
- 長谷川等伯
- 狩野永徳
- 狩野松栄
- 千利休
などが登場しています。
これを機に、狩野永徳に興味を持った方は、小説「等伯」読んでみてください。
以上「狩野永徳の性格と経歴。生涯や代表作品、面白いエピソード」のご紹介でした。
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