尾崎放哉の性格と有名な代表作は?生涯と死因。面白いエピソード

種田山頭火と並び、自由律俳句の詠み手として活躍した尾崎放哉(おざきほうさい)を知っていますか?

現在の東京大学を卒業した超エリートなんですが、

  • どのようにして俳人になったのか
  • どのような作品を残したのか

 

気になりますよね。

今回は、尾崎放哉の

  • 生い立ちと生涯、死因
  • 代表作
  • 性格

 

について紹介します!

こちらを読めば、尾崎放哉の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。

 

スポンサーリンク

尾崎放哉の生い立ちと生涯。死因

尾崎放哉は、1885~1926年、明治・大正時代の俳人です。

鳥取県出身で、本名は尾崎秀雄と言います。

尾崎家は士族で、父は鳥取地方裁判所の書記官でした。

14歳の頃から俳句を作り始め、15歳の頃には、中学校の校友会雑誌に、

  • 俳句
  • 随想
  • 短歌

 

を発表していました。

文才溢れる少年だったんですね。

 

16歳では、学友たちと『白薔薇』を発行。

中学卒業後は、第一高等学校の法科に入学し、夏目漱石に英語を習っていました。

  • 頭も良かったんですね。
  • 私も夏目漱石に英語を習ってみたいです。
  • 一高時代は、一高俳句会に参加し、ここで後の師匠となる荻原井泉水を知りました。

 

荻原井泉水は自由律俳句の指導者で、後に尾崎放哉も自由律俳句を極めていきますが、

最初は定型俳句を詠んでいました。

一高卒業後は、東京帝国大学法学部に入学、エリート街道まっしぐらです。

俳句活動も続けており、大学に入学した年にホトトギスに入選しています。

 

22歳で初めて、「放哉」の号を使いました。

無事に大学を卒業、通信社に入社します。

  • 文人って、大学を中退するイメージが強いんですが、
  • 放哉は東京帝国大学をきちんと卒業し、すぐに仕事もゲットしているんですね。
  • しかし、入社してすぐに退職してしまいました。

 

原因は不明です。うまく馴染めなかったのかな~

 

一つ目の仕事はすぐに辞めてしまいましたが、東大卒のエリート放哉。

翌年には転職し、東洋生命保険に就職しています。

当時ではかなりの大手企業です。

プライベートも充実し、東洋生命保険に就職した翌年には結婚しています。

結婚後は仕事面でも順調に出世街道を進んでいきます。

  • 契約係長
  • 大阪支店次長

 

と、階級を上げていきました。

 

大阪支店次長を務めあげ、東京に帰ってきた放哉ですが、ここで転機が訪れました。

30歳、『層雲』に初めて句が掲載され、ここから『層雲』との付き合いが始まりました。

  • 『層雲』は新傾向の俳句機関誌で放哉も定型俳句から、自由律俳句へと転向していきました。
  • 仕事で忙しい日々を送りながらも俳句は続けていたんですね。
  • 俳句が心の拠り所だったのかもしれません。

 

仕事面では、大阪支店次長まで務めたのに、酒での失敗が重なり平社員に降格

退社することにしたようです。

人間関係にも疲れたのか、少しの間、仕事を離れたようです。

 

しかし、家族を持つ身ですので、働かないわけにはいきません。

  • 新しく創設された、朝鮮火災海上保険株式会社の支配人として、韓国は京城に赴任しました。
  • 当時の韓国は日本の統治下にありました。
  • いきなり支配人だなんて、すごいですね。

 

支配人として赴任したものの、これまたお酒が原因で1年ほどで免職されてしまいました。

どんだけ酒癖が悪いのよ・・・

満州で再起をかけましたが、病気により、現地の病院に2か月も入院します。

 

なんとか日本に帰ってきた放哉ですが、妻にも見放され、離縁されてしまいました

東大卒のエリートだった放哉でしたが、酒癖の悪さが災いして、職も家族も失ってしまいました。

残ったのは俳句のみ。

ここからは、各地の寺を転々とし、なんとか生活していきます。

  • 京都鹿ケ谷の一燈園
  • 京都市東山区の知恩院
  • 神戸市須磨区の須磨寺
  • 福井県小浜市の常高寺

 

酒癖の悪さからお寺を追い出されたり、権力争いに巻き込まれたり、お寺が破産したり・・・

色々な理由から、転々としました。

 

最終的には頼れるお寺も無く、師匠である萩原井泉水のもとに身を寄せました。

  • 放哉40歳の頃です。
  • この頃には、放哉は病気がちになっており、自分の死期が近いことを悟っていたのでしょう。
  • 井泉水に「海の見えるところで死にたい」と漏らしていました。

 

優しい井泉水さん、自分の知り合いに頼んで、

放哉最期の地となる小豆島のお寺を紹介してもらいました。

 

小豆島で小さい庵を営み、放哉は一人で生活していました。

俳句の創作に没頭する日々です。

  • 俳句に没頭する放哉を、病魔は襲いました。
  • 2月には肺結核と診断され、3月には喉の粘膜の炎症で食事もできない状態にまで陥ります。
  • そして4月、近所の老婆に看取られながら、最期を迎えました。

 

享年41歳。早すぎる死でした。

若い頃は学業もでき、文才もあるエリートで、順風満帆な人生でした。

しかし、酒に溺れてからは転落の一途・・・

唯一の頼み綱は中学生の頃から続けていた俳句でした。

 

尾崎放哉の俳句。有名な代表作

では、尾崎放哉の俳句について紹介しましょう。

尾崎放哉の句集は、放哉の死後に萩原井泉水が編集した『大空(たいくう)』のみです。

これは、俳句に、書簡と随筆が付されています。

  • 『層雲』に掲載された句の中から726句が選句されています。
  • 井泉水は、尾崎放哉がこの世に存在したことを形として残しておきたかったんでしょうね。
  • 周りの人から見放されても、井泉水だけは彼を死後まで見放しませんでした。

 

なんていい人なんだ~~

『大空』というタイトルは、放哉の戒名「大空放哉居士」から採っています。

これは、放哉の句、

大空のました帽子かぶらず

に由来しています。

放哉は多くの俳句を詠んでいますが、小豆島に渡ってからの俳句がより一層深化を遂げていると評されています。

代表作です。

こんなよい月を一人で見て寝る

足のうら洗へば白くなる

墓のうらに廻る

咳をしても一人

 

特に有名なのは最後の「咳をしても一人」ではないでしょうか。

教科書にも載っていることがあります。

なんだか、もの悲しい俳句が多いです。

  • 孤独感
  • 無常観

 

が放哉の俳句の特徴です。

職を辞して、妻とも別れて後は、本当に孤独だったんでしょう。

その孤独感を埋めるために俳句を詠んでいたのかもしれません。

 

【逸話】尾崎放哉の性格がわかる面白いエピソード

尾崎放哉は、自由奔放な人で、「今一休」とあだ名が付けられるほどでした。

アニメにもなっている一休さん。ちょっとヘンテコな人ですよね。

アニメではトンチの名人として良く描かれていますが、

実際にはすごい変わり者で、周りからは煙たがれていたそうです。

放哉も同じで、周囲を困らせていたそうです。

  • 酒癖がとことん悪い(飲むと暴れまわったそうです)
  • お金の無心をする
  • 東大出身であることを鼻にかける

 

東大出身であることが、放哉にとっては誇れることだったんでしょうが、

現状と一致していないですもんね。

  • お金を無心してきながらも、東大出身であることを自慢されたら、そりゃ~腹が立つよね。
  • それなら自分で稼ぎなさいよ!と思います。
  • こんな生活を送っていては、周りから人がいなくなるのもうなづけます。

 

井泉水はよく見放さなかったですよね。面倒見の良い人なんでしょうね。

放哉は、最期には、近所の老婆が下のお世話までしてくれていたんだそうです。

周りから人がいなくなり、孤独感を感じながらも、

それでも様々な面でサポートしてくれる人が数人はいたことが、放哉にとっては救いでしたよね。

 

まとめ 尾崎放哉はどんな人?映画やドラマはある?

尾崎放哉の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。

簡単にまとめておきましょう。

  • 尾崎放哉は、東大出身で出世街道をひた走っていたエリートである
  • 尾崎放哉は、酒癖の悪さから職も妻も失った
  • 尾崎放哉は、寺を転々としながらなんとか生活していた
  • 尾崎放哉は、自由奔放な性格で、周囲から煙たがられていた
  • 尾崎放哉には自由律俳句だけが心の拠り所だった

 

エリートの転落人生。

酒癖の悪さが災いするだなんて、まさにマンガやドラマのような人生でしたね。

そんな尾崎放哉の人生を取材し、伝記的小説を書いた人がいます。

  • 『海も暮れきる』吉村昭

 

これは、NHKでドラマにもなっており、1985年に放送されました。

放哉生誕からちょうど100周年だったんですね。

現在映像は見ることができないので、興味がある人は、吉村さんの小説を読んでください。

尾崎放哉の人生が事細かに書かれていますよ。

以上、「尾崎放哉の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。

コメント