小早川隆景の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは小早川隆景という人物をご存知でしょうか?

小早川隆景は三本の矢の逸話で知られる毛利元就の3男で正室との子どもなかでは末っ子でした。

末っ子であった小早川隆景でしたが、兄達(毛利隆元・吉川元春)に負けないくらいの活躍をし、父を助ける他、豊臣秀吉に気に入られ五大老の一人に任じられました。

今回は小早川隆景について

  • 小早川隆景の生い立ちとは?
  • 小早川隆景の経歴や最後は?
  • 【エピソード】小早川隆景の人柄や性格が分かる逸話

を紹介します。

こちらを読めば小早川隆景の経歴や性格がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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小早川隆景の生い立ちとは?

小早川隆景は天文2年(1533年)に安芸国(広島県西部)の国人領主・毛利元就の3男として生まれます。

幼名は徳寿丸です。

兄には10歳上の毛利隆元と3歳上の吉川元春がいます。

小早川隆景が生まれた当時の毛利家は、現在の山口県から西は福岡県、東は広島県まで支配下に置いていた大内氏に仕えていた安芸国の一国人領主でした。

そんな中、毛利家と同じく安芸国人で大内氏に仕えていた竹原小早川家から隆景を養子にしたいという話がきました(当主の小早川興景が23歳で急死し実子がいなかった)。

毛利元就は当初は隆景が若かったことから断っていましたが、天文13年(1543年)に主君の大内義隆の勧めもあり12歳で養子となり小早川家の当主となります。

小早川家を継いだ隆景でしたが、大内義隆と毛利元就への忠誠は変わらず、天文16年(1547年)には大内義隆の備後国(広島東部)神辺城(かんなべじょう)攻めに従軍し初陣を飾りました。

また、隆景が後を継いだ竹原小早川家は沼田小早川家の分家でしたが、この沼田小早川家にも大きな問題ありました。

その問題というのが当主・小早川繁平が病弱であるうえに盲目であったことでした。

そのため家臣の中で繁平派と隆景派に分かれ対立していました。

この問題に大内義隆が介入し、繁平に尼子氏との内通の疑いをかけ隠居に追い込みました。

これによって小早川隆景が沼田小早川家を統合し小早川両家の当主となりました。

この時、繁平派の家臣を粛清しましたが、小早川繁平の妹を正室に迎えたため大きな争いは起こりませんでした。

小早川隆景の経歴や最後は?

小早川隆景によって統合された小早川家は、次兄・吉川元春が継いだ吉川家とともに毛利家の中心的な役割を果たしていきます(毛利両川体制)。

また、小早川家が率いていた水軍も毛利軍の精鋭となります。

この小早川水軍が活躍した戦いが弘治元年(1555年)の厳島の戦いです。

厳島の戦いは大内家臣・陶晴賢率いる大内軍と毛利軍が戦った戦いです。

当時の大内氏は

  • 天文20年(1551年)に当主・大内義隆が陶晴賢の謀反によって自害(大寧寺の変)
  • 後を継いだ大内義長(義隆の養子)は陶晴隆の傀儡(かいらい、あやつられる)となる

元々大内氏に仕えていた毛利元就でしたが、毛利家の勢力拡大に危機を感じた陶晴賢は対決することになります。

そして、弘治元年(1555年)10月16日に起こった厳島の戦いでは兵力の差で毛利軍は劣勢だったものの、毛利元就の策略や隆景が率いた小早川水軍の活躍で大内軍を破りました。

厳島の戦いに勝利した毛利家は

  • 弘治3年(1557年)に周防と長門を攻略し大内氏を滅ぼす
  • 永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)には難敵であった尼子氏を滅ぼす
  • 永禄10年(1567年)には伊予国(愛媛県)に出兵し宇都宮氏を降伏させる

など厳島の戦いから10年程で勢力を拡大させ、小早川隆景もこれらの戦いに参加し活躍します。

また、毛利家が勢力拡大している間の永禄6年(1563年)に家督を継いだ長兄・毛利隆元が急死しますが、毛利家を継いだ隆元の嫡男でまだ11歳の毛利輝元を小早川隆景は次兄・吉川元春とともに父・毛利元就の死後も支えます。

毛利家は勢力拡大をしていく中で小早川隆景は山陽道(本州の瀬戸内海側)・吉川元春は山陰道(本州の日本海側)を担当します。

天正2年(1574年)には足利義昭を追放した織田信長と毛利家は対立します。

小早川隆景は織田家と通じて反旗を翻した三浦氏を討伐するほか、豊後国(大分県)の大友宗麟が毛利領に侵攻してきたため水軍を率いて戦いました。

天正4年(1576年)に入ると追放された足利義昭の誘いで第2次信長包囲網に参加し、織田軍と戦っていた石山本願寺への援軍を送り小早川水軍が九鬼水軍を破ります(第1次木津川口の戦い)。

しかし、天正6年(1578年)の第2次木津川口の戦いで九鬼水軍の鉄甲船の前に敗れてしまいます。

また、信長包囲網を結成していた石山本願寺が織田信長と講和したため包囲網は崩壊します。

包囲網の崩壊により窮地を脱した織田信長は羽柴秀吉に中国方面を制圧を任せ、毛利軍は羽柴勢と戦うことになります。

しかし、織田軍の前に反織田の諸勢力が次々と敗れていきます。

  • 天正7年(1579年)備前国(岡山県南東部)の宇喜多直家が織田家に寝返る
  • 天正8年(1580年)播磨国(兵庫県南西部)の別所長治が羽柴勢によって攻められ自害する(三木合戦)
  • 天正9年(1581年)因幡国(鳥取東部)の鳥取城が陥落し城主の吉川経家が自害する

そして、天正10年(1582年)には毛利家臣の清水宗治が籠もる備中高松城が包囲されてしまいます。

小早川隆景は吉川元春とともに援軍を率いて備中高松城に向かいますが、羽柴秀吉の水攻めによって城に近寄れませんでした。

また、同年3月には織田信長が甲斐の武田氏を滅ぼしたため、隆景は羽柴秀吉と密かに和睦交渉を進めます。

そんな中、同年6月2月に織田信長が本能寺の変で亡くなります。

羽柴秀吉は本能寺の変の知らせを3日か4日に聞いたと言われおり、毛利に伝わらないように近くにいた信長の死を知っている者を殺したと言われています(毛利に知られた場合は明智光秀と手を組まれ挟撃される危険があった)。

そして羽柴秀吉から和睦の話が届きます。

和睦の条件は備中高松城主・清水宗治が自害すれば、城内の者は助けるというものでした。

毛利家はこの条件を吞み羽柴秀吉と和睦しました。

しかし、羽柴秀吉が撤退した次の日に毛利軍に信長死の知らせが届きます。

この知らせに毛利軍は疑心暗鬼に陥り羽柴勢を追撃できませんでした。

この後は羽柴秀吉に仕え、人質として養子の小早川秀包(元就の9男で隆景の弟)を送ります。

秀吉の下では

  • 天正13年(1585年)の四国攻めで伊予国(愛媛県)の金子元宅を討ち取る
  • 天正14年(1586年)の九州征伐で活躍し筑前(福岡西部)・筑後(福岡南部)・肥前(佐賀県)1郡を与えられる(代官として治める)
  • 文禄元年(1592年)の文禄の役では碧蹄館の戦いで明軍を撃破する

といった活躍を見せ、徳川家康や前田利家らとともに五大老に任ぜられました。

また、豊臣秀吉の甥である羽柴秀俊(秀吉正室の兄の子)が小早川家の養子となり名を小早川秀秋と改め、文禄4年(1595年)に家督を秀秋に譲り隠居します。

※隆景には秀包という養子がいましたが秀秋が養子となったため廃嫡となります

そして、慶長2年(1597年)6月12日に65歳で亡くなりました。

【エピソード】小早川隆景の人柄や性格が分かる逸話

小早川隆景のエピソード1.父・毛利元就の教え

毛利元就は死ぬ直前に息子3人に矢に例えて結束を訴えかけます。

それが「三本の矢」の逸話ですが、長男の毛利隆元が元就より早くに亡くなっていることから後世の創作とされています。

しかし、この逸話には元になったものがあります。

それが『三子教訓状』という元就直筆の書状です。

この書状は重要文化財に指定されており、長さ3㍍もあります。

この書状には息子たち(隆元・元春・隆景以外の子たちにも)に毛利本家を守るように14条の項目が書かれています。

とくに他家をついだ吉川元春と小早川隆景に対しては、「他家を継いでも毛利宗家を大事にし、兄・毛利隆元を助けよ」というような内容を何条にも分けて書いています。

小早川隆景はこの教えをしっかりと守り、兄・毛利隆元が亡くなった後も隆元の嫡男・毛利輝元を支えました。

三子教訓状 - Wikipedia

※『三子教訓状』

小早川隆景のエピソード2.豊臣秀吉から信頼される

毛利家をはじめ小早川隆景は賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉vs柴田勝家)の後にに豊臣秀吉に仕えましたが、もともとは敵として会うことになります。

本能寺の変で織田信長が亡くなりましたが、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の交渉術で毛利軍は織田信長の死を知らないで和睦を結んでしまいます。

毛利軍が織田信長の死を聞いたのは羽柴秀吉が撤退した翌日のことでした(この時に自害した清水宗治はある意味無駄死に)。

まんまと騙された毛利軍内には追撃を主張するものが多くいて、兄の吉川元春もその中の一人でした。

しかし、小早川隆景は「一度和睦を結んだのにそう簡単に破ることはできない」と意見し追撃を行わせませんでした。

その後、豊臣秀吉に仕えた小早川隆景は秀吉の天下統一への道を助け、羽柴の名字と豊臣の本姓を下賜(かし、高い身分の人が低い身分の人に与えること)されます。

また、徳川家康や前田利家とともに五大老に任ぜられ、豊臣政権では中心的な役割を果てしていきます。

また、豊臣秀吉からは「日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰である」と評価されました。

小早川隆景は豊臣家臣からも信頼され、隆景が亡くなった際に黒田官兵衛は「日本に賢人がいなくなった」と言ったといわれています。

まとめ 小早川隆景はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで小早川隆景について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 小早川隆景は毛利元就の3男として生まれた
  • 小早川隆景は12歳で小早川家の当主となった
  • 小早川隆景は小早川家の当主として毛利家を支えた
  • 小早川隆景は豊臣政権下では五大老の一人となった

大河ドラマではお笑いタレントの恵俊彰(ホンジャマカ)さんが演じた『毛利元就』があります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「小早川隆景の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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