小早川隆景の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

小早川隆景はあの中国地方の覇者・毛利元就の息子で、元就が残した逸話「三本の矢」の一本です。

隆景は父のように賢く、亡くなった際には黒田官兵衛から「日本に賢人がいなくなった」と言われます。

また、豊臣秀吉からは「日本の西は隆景に任せれば安泰だ」と評されました。

今回は小早川隆景について

  • 小早川隆景の代表的な戦とは
  • 【逸話】小早川隆景の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】小早川隆景の強さはどれくらい?

を紹介します。

こちらを読めば小早川隆景の戦いや強さがわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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小早川隆景の代表的な戦とは

小早川隆景の代表的な戦い1.防長経略(ぼうちょうけいりゃく)

これは天文24年(1555年)10月12日から弘治3年(1557年)4月3日にかけて、毛利氏が周防・長門(現在の山口県)の戦国大名・大内氏を滅ぼすために行った侵攻作戦のことです。

天文24年(1555年)10月1日の厳島の戦いで大内軍を壊滅させた毛利軍は弱体した大内氏を滅ぼすべく大内領へ侵攻します。

小早川隆景もこの作戦に参戦し須々万沼城(すすまぬまじょう)を落とします(一度は失敗し父の作戦で落とす)。

その後は大内家内の内部崩壊もあり毛利氏は大内氏を滅ぼし大内領(周防・長門)を手に入れます。

小早川隆景の代表的な戦い2.第2次月山富田城の戦い

この戦いは永禄8年(1565年)に毛利氏と出雲国(島根県東部)の戦国大名・尼子氏が戦った戦いです。

毛利氏と尼子氏は中国地方を巡って争っていましたが、尼子氏の全盛期を築いた尼子晴久が急死すると次第に尼子氏は弱体化していきます。

そして毛利元就は尼子氏を滅ぼすベく尼子氏の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)へ侵攻します。

月山富田城は「天空の城」と呼ばれ難攻不落の城でした。

毛利軍は月山富田城を総攻撃し、小早川隆景は北側の菅谷口から攻めます。

しかし、尼子方の山中鹿之助らの善戦もあり毛利軍は苦戦しますが、兵糧攻めに切り替えると次第に尼子軍は疲弊していき永禄9年(1566年)11月に尼子氏は降伏します。

これによって毛利氏は中国地方の覇者となりました。

小早川隆景の代表的な戦い3.朝鮮征伐 文禄の役

この戦いは文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が明国征服のため朝鮮国に出兵し戦った戦いです。

小早川隆景は第6番隊の主将として出陣します。

第6番隊は朝鮮八道の1つ全羅道(朝鮮半島南東部の地域)の制圧を任せられますが、明軍の援軍が朝鮮にくると全羅道の制圧を諦め、明軍を迎え撃つために京畿道に配置されます。

朝鮮八道 - 維基大典

中でも、明軍を迎え撃った碧蹄館(へきていかん)の戦いでは先鋒を務め、李如松率いる明・朝鮮連合軍を撃破します。

連合軍を迎撃し撃退したことにより、連合軍は武力での攻略を諦め講和へと舵を切ります。

この後、日本軍は講和交渉すると同時に朝鮮半島南部を完全に確保するために晋州城を攻略し8日で落とします(第2次晋州城合戦)。

その後、小早川隆景は病を発して帰国します。

【逸話】小早川隆景の勝ち戦と負け戦は?

小早川隆景の勝ち戦:厳島の戦い

この戦いは天文24年(1555年)10月1日に厳島神社で有名な厳島(別名:宮島)を舞台に毛利氏と陶氏の間で起こった戦いです。

毛利氏はもともと大内氏に仕えていましたが、天文20年(1551年)に大内氏当主・大内義隆が家臣の陶晴賢によって討たれ(大寧寺の変)、傀儡政権(大内氏は陶のあやつり政権となる)となると、陶晴賢は毛利氏の勢力拡大を恐れ支配権の返上を要求してきたため対立します。

そして、陶晴賢は軍を率いて毛利領へ進軍します。

両軍の兵力は

  • 毛利軍が約5千人
  • 陶軍が約3万人

と圧倒的に毛利軍の方が劣勢でした。

しかし、毛利元就の戦前からの下記の外交や調略が本戦で大きな影響をもたらします。

  • 大内氏と連合しようとした尼子氏に対して、反尼子勢力を支援し牽制する
  • 九州で大内氏と対立していた少弐氏(しょうにし)に挙兵を促す
  • 瀬戸内海の制海権を握っていた来島村上氏と婚姻を結ぶ(隆景の養女を嫁がす)
  • 陶家臣で知勇兼備の名将・江良房栄を調略し毛利方に寝返らせようとするが、この情報を陶方に知らせ房栄を殺させる
  • 桜尾城主・桂元澄を偽装内通させ、陶軍を厳島に上陸させる

また、本戦では小早川隆景が率いた小早川水軍と村上水軍が活躍します。

9月22日に陶軍が厳島に上陸します。

9月24日に陶軍上陸の報を聞いた毛利元就は、毛利本隊(毛利元就・毛利隆元・吉川元春)と別働隊(小早川隆景)と村上水軍に分け出陣します。

小早川隆景は約130艘の船を率います。

毛利軍は30日に厳島へ渡ろうとしますが、当時の夕方は暴風雨で船を出すのも難しい状況でした。

しかし、毛利元就は出陣を決行し、厳島の東側から上陸します。

そして、10月1日に毛利軍は奇襲攻撃を仕掛けます。

小早川隆景の別働隊も攻撃に加わり陶本陣に突撃します。

突然の攻撃に混乱した陶軍は我先にと島を脱出しようとしますが、小早川水軍と村上水軍が陶水軍を攻撃し船を焼き払います。

陸上と海上から挟撃を受けた陶軍は総崩れとなり大将の陶晴賢は自害します。

厳島の戦いは毛利軍の圧勝、大内家は衰退していくことになります。

小早川隆景の負け戦:備中高松城の戦い

この戦いは天正10年(1582年)4月から同年6月の間に毛利軍(清水勢)と織田軍(羽柴勢)の間で起こった戦いです。

大内氏と尼子氏を滅ぼして西国の覇者となった毛利氏ですが、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛した織田信長と戦うことになります。

織田信長は天正6年(1578年)に中国攻めを開始し羽柴秀吉を送ります。

織田軍は天正9年(1581年)10月までに別所氏の三木城や吉川氏の鳥取城を落とし、天正10年(1582年)4月15日に備中高松城を包囲します。

この備中高松城を守っていたのが清水宗治という武将です。

清水宗治はもともとは石川氏の配下でしたが、毛利氏が勢力を伸ばしてくると毛利家臣となり小早川隆景の配下となります。

両軍の兵力は

  • 籠城兵(清水勢)は約5千人
  • 織田軍(羽柴勢)は約3万人

と兵力では圧倒的に清水勢は不利でした。

しかし、備中高松城は城の周辺を湿地で囲まれていたため、羽柴勢は簡単には城に近づけませんでした。

また、小早川隆景も主君・毛利輝元(毛利元就の孫)らとともに4万の援軍を率いて備中高松城へ向かいます。

この状況に羽柴秀吉は織田信長からの1日でも早く城を落とせとの命もあり水攻めを決行します。

この水攻めは備中高松城の強さである湿地を利用した作戦でした。

水攻めの効果によって城内は水浸しになり兵糧も食べれなくなってしまいます。

小早川隆景らの援軍は5月21日に到着しますが、すでに備中高松城は水浸しになっていたため、毛利は講和することを決めます。

毛利方は

  • 5国(備中・備後・出雲・美作・伯耆)の割譲と城兵の保全を提示する

しかし、羽柴秀吉からは

  • 5国の割譲と清水宗治の自害を提示される

毛利方は安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を宗治の元へ送り降伏を勧めましたが、宗治は「主家・毛利家と城内の兵が助かるなら自分の命を差し出す」と答えます。

講和交渉は月をまたぎ6月まで伸びますが、6月4日に突如として羽柴秀吉が安国寺恵瓊を呼び5国から3国(備中・美作・伯耆)に変えることと清水宗治の自害を提示してきました。

この提示内容い疑問を持った毛利方ですがこの条件を受け入れて和睦が成立しました。

この時、清水宗治は小舟の上で秀吉から送られてきた酒を飲み自害しました(享年46)。

そして、羽柴秀吉は6月6日に兵を引き上げました。

ところが、羽柴秀吉が撤退した翌日の6月7日に毛利方に織田信長の死の報が入ってきます。

この報によって毛利方は疑心暗鬼い陥り、羽柴勢を追撃するかしないかで対立しますが、結局は追撃はしませんでした。

毛利方は忠臣の清水宗治を失うほか、羽柴秀吉の勢力を拡大させてしまうことになります。

【最強伝説】小早川隆景の強さはどれくらい?

小早川隆景の強さ1.先を読む力

小早川隆景は備中高松城の戦いの際に羽柴秀吉と講和交渉します。

備中高松城の戦いは城主で隆景の配下であった清水宗治の死をもって終わりますが、本能寺の変で織田信長していたこともあり、結果論としてはただの無駄死にというなっていました。

毛利家内では兄の吉川元春が羽柴勢の追撃を主張する中、小早川隆景は「約束をそう簡単に破ることはできない」と言い追撃はしませんでした。

これには隆景の考えがあり、清水宗治を失ったは隆景にとっても残念で腹立たしいかったのは間違いないはずです。

ただ、ここで羽柴秀吉を追撃しても明智以外の織田残党(柴田・丹羽・滝川ら)と戦える力はないと考えます。

隆景の考えの通り、秀吉は明智光秀を山崎の戦いで倒し、その後の清洲会議(織田家の後継者選びと織田政権の運営方針を決める)では秀吉が台頭する結果となります。

その後、毛利家は羽柴秀吉が柴田勝家と争っている間は中立の立場を取り、賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると従属をします。

これ以降、小早川隆景は羽柴秀吉に気に入られ、主君・毛利輝元とともに豊臣政権の大老となりました。

小早川隆景の強さ2.毛利本家を守る

豊臣政権の支えていた小早川隆景でしたが、毛利本家は秀吉とは距離をおいていました。

また、当主の毛利輝元には子がいませんでした。

そんな時、豊臣秀吉から毛利家に養子を出すという噂が小早川隆景の耳に入ります。

この養子というのが豊臣秀吉の養子(秀吉の正室の甥)で名を羽柴秀俊といいます。

羽柴秀俊は後に関ヶ原の戦いで有名となる小早川秀秋です。

小早川隆景はこの養子縁組の誘いは豊臣秀吉が毛利家を乗っ取るための策だと考え、隆景は小早川家に養子として迎えると秀吉に申し出ます。

また、毛利本家には毛利秀元(元就の4男・穂井田元清の次男)を毛利輝元の養子として迎えることを認められました。

これによって毛利本家を守ることができました。

まとめ 小早川隆景のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで小早川隆景について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 小早川隆景は防長経略や第2次月山富田城の戦いに参戦し毛利家の勢力拡大に貢献した
  • 小早川隆景は豊臣政権下でも朝鮮出兵などで活躍した
  • 小早川隆景は備中高松城の戦いでは羽柴秀吉と講和交渉をする
  • 小早川隆景は先の事を考え策を練っていた

おすすめ作品

大河ドラマでは恵俊彰さんが演じた『毛利元就』がおすすめです。

本では

  • 野村敏雄さんが書いた『小早川隆景ー毛利を支えた知謀の将』
  • 利重忠さんが書いた『元就と毛利両川』

がおすすめです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

以上、「小早川隆景の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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