伊東甲子太郎の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い

あなたは、新選組の伊東甲子太郎(かしたろう)を知っていますか?

2004年の大河ドラマ「新選組‼」では、谷原章介さんが演じていましたが、今までの伊東甲子太郎像を変える好演でした。

今回は、伊東甲子太郎について、

  • 伊東甲子太郎の生い立ちと経歴
  • 伊東甲子太郎の新撰組での活躍は?
  • 逸話やエピソードから見る伊東甲子太郎像とは?

を紹介します。

これを読めば、あなたも新選組のもう一つの顔が見えてきます。

新選組全盛期から伊東甲子太郎の参加により変わらざるを得ない新選組。

ドラマのような展開を楽しんでください!

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伊東甲子太郎の生い立ちと経歴

伊東甲子太郎は、天保5年(1835年)常陸志筑(ひたちしづく)藩:現在の茨城県かすみがうら市の藩士鈴木専右衛門忠明の長男として生まれました。

領内から追放される

父忠明が隠居した後、甲子太郎が家を継ぎましたが、忠明が多くの借金をしていたことが分かり、家名断絶となり、甲子太郎一家は、藩の領内から追放されました。

甲子太郎はその後、水戸へ行き神道無念流を学び、水戸学も学んで、次第に勤皇(きんのう)思想に傾いてゆきます。

勤皇とは、帝(天皇)を敬い、帝のために力を尽くし働くこと。類義語に「尊王(そんのう)」がありますが、「尊王」は帝を敬うことのみを意味します。

伊東大蔵と名乗る

甲子太郎は、その後江戸に出て、北辰一刀流の剣術を学ぶため、伊東誠一郎の道場に入門します。

甲子太郎の剣術の腕が認められ、伊東の婿養子となり、伊東大蔵と名乗るようになりました。

妻はみつ、えいという名の娘がいました。

  • 元治元年(1864年)10月 北辰一刀流の同門、藤堂平助(新選組幹部)の仲介で新選組入隊を決める
  • 同年11月 弟の鈴木三樹三郎らとともに上洛。名を甲子太郎に改名

新選組での活躍

新選組では、参謀兼文学師範という役に任じられます。

  • 慶応2年2月 近藤勇らとともに広島出張へ のち近藤と別行動をとる
  • 慶応3年1月 永倉新八・斎藤一たちを伴い島原の角屋で宴会後3日間居続け、謹慎処分となる
  • 同年3月 新選組を離脱 『御陵衛士(ごりょうえじ)』を結成する
  • 同年11月18日 近藤勇らに暗殺される

伊東甲子太郎の墓は、京都光縁寺に埋葬されましたが、御陵衛士により京都東山区の戒光寺に改装されました。

伊東甲子太郎の性格が分かる面白いエピソードとは?

伊東甲子太郎は、新選組局長近藤勇と副長土方歳三を退け、新選組を乗っ取ろうとしていた策士だったというのが、一般的な見方でした。

新選組を抜けた伊東甲子太郎

しかし実際伊東は、新選組という組織を分解させる一歩手前まで追いやり、最終的には、13名ほどの隊士と共に、新選組を抜けたのです。

新選組には、「局を脱するを許さじ」という掟があります。

これを破ったものは、たとえ局長・副長であっても切腹という厳しい掟です。

伊東が脱退する2年前には、新選組結成以前、近藤が江戸に道場を構えていた時からの仲間だった山南敬助が、新選組を脱走し、切腹しています。

近藤たちは、伊東の新選組脱退も結局は認めず、伊東たちの粛清が行われたのです。

新選組側に立って考えると、伊東甲子太郎は、憎んでも憎み切れない裏切者でした。

人気のあった伊東甲子太郎

でも立場を変えてみると、伊東という人がまた違って見えてきます。

伊東は、容姿端麗で、話もうまく穏やかな人で、剣の腕も一流でした。

新選組に入ると、その人望で隊士たちの人気はうなぎのぼりです。

当時の新選組内部は、厳しい掟と毎日の市中見回りによる緊張感で張り詰めた空気でした。

毎日が”死”と隣り合わせなのですから、隊士たちのストレスも大変なものです。

伊東は、そんな隊士たちの心のよりどころとして、近藤や土方よりも慕われていました。

西本願寺に仕えていた西村兼文の『新撰組(壬生浪士)始末記』の中では、

「伊東甲子太郎は、撃剣に長じ、和学もたしなみ、歌道にも心を寄せ、温和にして文武を兼ねたる壮士なり」

とあります。

伊東は,ことあるごとに「斬れ!」という土方に「まあまあ」となだめ、それによって斬られずに済んだ隊士もいましたので、ますます伊東の人気が上がっていきました。

思想の違いから近藤勇と対立

文学師範として講義をすれば、多くの隊士が集まったものでした。

伊東と近藤は、共に勤皇の思想を持っていたのですが、それを実現する方法で対立していました。

  • 近藤が率いる新選組は、幕府を守りながら帝をも守るという姿勢:武力も必要
  • 伊東は、帝を中心とした政治をすることで日本と帝を守るという姿勢:武力は最後の手段

伊東は、近藤たちを納得させる自信を持っていたから,新選組に入隊したのですが、思うようにいかず、脱退という道をとることになりました。

ここでも伊東と近藤たちの見解の違いがあります。

  • 近藤:隊を抜けた裏切者
  • 伊東:いずれ理解してくれる時が来る

この楽天的な考え方は、学問に優れ、もともと穏やかな伊東の性格が災いしてしまったのでしょう。

伊東甲子太郎の人物像が分かる面白い逸話とは?

坂本龍馬に似ている伊東甲子太郎

伊東は、御陵衛士結成後、朝廷に建白書(意見書)を送っています。

その内容は

  • 公卿(朝廷)中心の新政府を作る
  • 一和同心(心をひとつにして力を合わせること)を大切にして天下から広く人材を求める
  • 国民皆兵
  • 積極的に開国して富国強兵を進める

など、当時としては進歩的な考えでした。

現代から見れば、新選組の考え方のほうが閉鎖的で頑固なのですが、幕府が一番という彼らには、伊東の考え方を受け入れることは難しかったのでしょう。

あなたは気づきましたか?

伊東と同じような考え方をしていた人に。

坂本龍馬・・・。

大政奉還で、幕府に政権を放棄させ、朝廷を中心とした政治を実現させ、武力によらない討幕を目指した人物です。

伊東は、平和的に政府を交代させようと考えていた坂本龍馬と同じような考えを持っていたのです。

でも、新選組には理解してもらえませんでした。

坂本龍馬の暗殺から3日後、伊東甲子太郎は亡くなる

慶応3年11月18日。近藤の誘いに乗り、伊東は単身近藤の妾宅へ行きます。

そこで大いに語り合い、伊東は近藤を説得します。

その場での近藤は、伊東の話をよく聞き涙まで流したという話もあります。

酒を勧められるまま飲んだ伊東は,深夜ほろ酔い気分で帰途につきました。

油小路六条あたりで、伊東は潜んでいた新選組隊士大石鍬次郎らにより暗殺されました。

伊東甲子太郎の遺体は,そのまま路上に放置されました。

遺体を取り返しに来るであろう御陵衛士を誘い出すためです。

待ち伏せされることを覚悟の上で、御陵衛士がやってきました。

元新選組同志の死闘の中で、近藤とは江戸にいたときから親しくかった新選組結成メンバーの藤堂平助も戦死しました。

伊東甲子太郎が命を落とした11月18日は、坂本龍馬が暗殺された3日後でした

【結論】伊東甲子太郎の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い

伊東甲子太郎の経歴とエピソードでわかる人物像について紹介しました。

最後に伊東甲子太郎について簡単にまとめておきましょう

  • 伊東甲子太郎は新選組入隊後脱退し御陵衛士を結成した人
  • 伊東甲子太郎は勤皇の思想を持っていた
  • 伊東甲子太郎は容姿端麗,文武に優れた穏やかで平和的な人
  • 伊東甲子太郎は自分の考えを理解されなかったため暗殺された

歴史にもしもは禁句ですが、

もし伊東甲子太郎が、新選組の思想を改革していたら、鳥羽伏見の戦から始まる戊辰戦争は変わっていたかもしれません。

伊東は明治政府に入っていたかもしれませんね。

新選組の小説やドラマを伊東甲子太郎の視点から見ると、また違った思いで楽しめることでしょう。

大河ドラマ「新選組‼」の”谷原甲子太郎”は、とてもスマートで優しく、人の好い人物として描かれていました。

それまでの伊東甲子太郎のイメージが強すぎて、はじめは違和感がありました。

でも伊東が暗殺される放映回では、切なくて気の毒でたまりませんでした。

新選組には、多くの隊士がいて、その隊士それぞれにドラマがあります。

伊東甲子太郎の波瀾万丈で哀しいドラマにあなたもひたってみてください。

きっと違った新選組を知ることができます。

最後に伊東甲子太郎の人となりが見える小説を紹介します。

  • 『地虫鳴く(じむしなく)』 木内昇

慶応元年から慶応3年末の近藤勇狙撃事件までを中心に書かれています。

伊東甲子太郎に近かった人たち:阿部十郎・篠原泰之進・尾形俊太郎などの視点から書かれた一風変わった作品です。

新選組をよく知らない人でも楽しく読める小説ですので、ぜひ読んでみてください。

以上「伊東甲子太郎の経歴・エピソードと人物像」でした。

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