「武田信玄」
この人物の名前を聞いたことが無い人はまずいないでしょう。
武田信玄は「甲斐の虎」と呼ばれ、戦国最強といわれた武田騎馬軍団を率い、周辺の勢力を圧倒していきました(戦績:72戦49勝20分3敗)。また、軍事面以外に内政面にも力を注いだ人物でもありました。
群雄割拠の戦国時代に生まれた武田信玄は、戦に強くて内政もできるという完璧な人物でした。
しかし、武田家は信玄の死から9年後に滅んでしまいます。
- なぜ、戦国最強の武田家は滅んでしまったのか?
- また、滅んだ家なのに現在でも有名で多くの人から好かれているのか?
今回は武田信玄について
- 武田信玄の生い立ちとは?
- 武田信玄の経歴は?
- エピソードから見る武田信玄の性格とは?
を紹介します。
こちらを読めば、武田信玄についてさらに深く知って、日本史がより楽しくなりますよ。
武田信玄の生い立ちとは?
武田信玄は大永元年11月3日(1521年12月1日)に甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の嫡男(実際は次男)として生まれます。
幼名は太郎又は勝千代です。
勝千代という名前は、武田家が戦に勝った日であったためこう名付けられました。
大永5年(1525年)、弟の次郎(武田信繁)が生まれます。
弟が生まれたことで、父・信虎との関係が悪化して行ってしまいます。
天文2年(1533年)、太郎は正室を迎えます。
初めての奥さんは政略結婚でした。2人は仲が良く1年後には出産を向かえますが、難産であったため奥さんと子は亡くなってしまいます。
天文5年(1536年)、太郎は元服します。
元服の際に室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の一字をもらい、名を太郎から晴信に改名しました。
また、継室として左大臣・三条公頼の娘を迎えます。
天文5年11月に晴信は初陣をします。
初陣の舞台は佐久郡海ノ口城(長野県南佐久郡)攻めでした。
武田軍はなかなか城を落とせず、冬でもあったことから撤退を決めます。
この時に晴信は初陣にも関わらず、信虎からは殿軍(しんがり)を率いるように命じられます。
殿軍とは軍全体の後方にいる部隊で、撤退戦の時は全滅する可能性がある部隊です。
しかし、晴信は部隊を反転させ、油断している海ノ口城を落としました。
晴信にとって清々しい初陣でしたが、命令を無視したため父からは怒りを買うことになります。
以後、信虎は勢力拡大のため多くの戦をします。
そのため、兵糧が底をついてしまったため、領民から無理矢理取り立てました。
この行為は晴信をはじめ、多くの家臣達の反感を買うようになりました。
天文10年(1541年)、晴信がついに動きます。
6月に晴信は信虎に「今川家に嫁いだ娘(晴信の姉)の様子を見てきてはいかがでしょう」と進言し駿河国へ向かわせます。
そして、6月14日信虎が駿河国から帰ってきたところを晴信は家臣達とともに国境を封鎖し、信虎を追放します。
甲斐武田氏第19代当主となります。
この時、晴信は21歳でした。
信虎追放の経緯の真意は不明ですが、父への恨み・野心・家臣達から担がれたなど多くの説があります。
また、晴信は今川家に信虎の面倒見てもらう代わりに隠居費を送っています。
武田信玄の経歴は?
当主となった晴信は、父と同様に勢力拡大を目指します。
晴信には夢があり、その夢とは海を手に入れることでした。
当時は貴重で生活に欠かせなかった塩を自力で手に入れたいと考えていました。
天文11年(1542年)6月から天文14年(1545年)にかけて、晴信は信濃国の大井氏・高遠氏・藤沢氏らを次々と倒し、東信濃を手中に収めていきます。
また、この間に背後を固めるために、今川と北条と良い関係を築き、信濃侵攻を本格化させていきます。
天文16年(1547年)、晴信は笠原氏の志賀城攻めの際に残虐な一面を見せました。
それは、笠原氏の援軍としてきた兵を討ち取り、その首(約3000)を志賀城の周りに並べるということをします。
士気を失った志賀城を一気に攻め落城させ、乱取りを行い、生け捕りとした者を奴隷にします。
同年には分国法である甲州法度之次第を定めます。
天文17年(1548年)2月、ここまで連戦連勝してきた晴信に悪夢が襲います。
その悪夢を食らわしたのが信濃国北部に勢力を誇っていた村上義清という大名でした。
最初に晴信の戦績を書きましたが、3敗のうちの2敗は村上軍と戦ったときの負けです。
最初の敗北である上田原の戦いでは、村上軍の作戦によって多くの将兵が戦死し、晴信自身も傷を負った言われています。
そしてもう1つの敗北が1550年7月のリベンジ戦・砥石城の戦いです。
しかし、この戦いでも晴信は「砥石崩れ」と呼ばれる大敗北を喫してしまいます。
連続で義清に負けてしまった晴信でしたが、真田幸隆の策略でわずか1日で砥石城を落とします。
これによって、晴信は北信濃を除き信濃をほぼ平定します。
天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて、晴信は越後の上杉謙信と川中島で激突します(11年間で5回)。
中でも最も激しい戦いとなったのが、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いです。
この戦いでは両軍合わせて7000人ほどの死傷者を出しました。
上杉謙信との戦いは引き分けとなりました(実際には武田軍の優勢)。
また、永禄2年(1559年)には出家し名を晴信から「信玄」に改めました。
上杉との戦いが一段落した信玄は次に駿河に侵攻します。
晴信が上杉と戦っている間の1560年に桶狭間の戦いで当主の義元が戦死したため、今川家は弱体化していました。
この時、嫡男の義信が反対したため(正室は義元の娘)粛清します。
侵攻の際、今川家から独立した徳川家康と今川領を分け合うという約束をしていましたが、信玄は約束を破り、一方的に領土を奪います。
元亀3年(1572年)、信玄は京へ上洛するため進軍し、道中、三方原の戦いで徳川軍を圧倒します。
しかし、徳川との戦いの後に体調を崩し、引き返している最中の元亀4年4月12日(1573年5月13日)に53歳で亡くなります。
エピソードから見る武田信玄の性格とは?
武田信玄は好戦的な性格でありましたが、周りの人に気配りができる性格でもありました。
信玄は好戦的で大名同士で結んだ盟約を破ったり、父の追放や反対派の粛清など、目的のためなら手段を選ばない人物でした。
しかし、信玄が当主となってからは父・信虎と違い、家臣の意見を聞き結論を出すという合議制を用いて政治を行っていきます。
また、信虎の時代に追放された武将や農民出身者を登用するなど、人選は実力で決めていきます。
そして、信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」という名言を残します。意味は人々が力を合わせれば城以上に強固なものになるということです。
その証拠に信玄の本拠地は躑躅ヶ崎館という館でした。これは信玄と家臣・領民が大きな絆で結ばれていたことを表しています。
信玄は死の直前にいくつか遺言を残したと言われています。
- 「3年間は、この死を隠し、内政に努めよ」
- 「困った事があったら謙信を頼れ」
- 「亡骸は諏訪湖に沈めろ」
これらの遺言から見えることは、信玄は自分の死後の武田家をものすごく心配していたということです。
しかし、武田家は信玄の死からわずか9年で滅びます。
理由は
-
後を継いだ勝頼(4男)と家臣の関係が良くなかった(後継者選びの失敗、勝頼が無能な訳ではない)。
-
信玄が他大名との盟約を破ったことで、武田家への信用が無くなっていた。
-
信玄が偉大すぎた
武田家が滅んだ理由は信玄自身にあったのかもしれませんね。
まとめ 武田信玄の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い
ここまで武田信玄の性格や経歴・生い立ちとエピソードについて紹介してきました
まとめてみると
- 信玄は父との関係が良くなかった
- 信玄は自分の利益となることはなんでもした
- 信玄は父とは違い家臣や領民の意見を積極的に聞いた
- 信玄は自分が死んだ後の武田家を心配していた
また、信玄は家康から尊敬されており、江戸時代には武田家のことが書かれた『甲陽軍鑑』がベストセラーとなります。
これが、現在でも武田信玄が有名である由縁です。
武田信玄に関する作品はたくさんあります。
- 中でもオススメなのが丸島和洋さんが書いた『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣』という本です。
武田家が強かったのは、なんと言っても有能な家臣達が多くいたからでした。
その家臣達の武田家での役割などが書かれています。
ぜひ読んでみてください。
大河ドラマでは
- 中井貴一さんが主演を演じた『武田信玄』、
- 市川猿之助(当時は亀治郎)さんが演じた『風林火山』
などがオススメです。
以上、「武田信玄の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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