北条時宗の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは、北条時宗という人物をご存知でしょうか。

 

NHK大河ドラマ「北条時宗」で、知ったというかたもいれば、漫画「アンゴルモア元寇合戦記」で知ったという方も多いかと思います。

モンゴル帝国と高麗連合軍が2度にわたって、侵攻してきた際(元寇)モンゴル軍を追いやったとされ戦前までは英雄とされていました。

そんな北条時宗は一体どのような人物であったのでしょうか。

今回は北条時宗の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

についてご紹介いたします。

これを読めば、北条時宗の生涯や生い立ち、経歴やエピソードを知ることができますよ。

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北条時宗の生い立ちと生涯。家族や兄弟、子供はいる?

北条時宗は建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉で鎌倉幕府の有力御家人である安達氏の甘縄邸で誕生します。

時宗の父は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼で、母は北条重時の娘・葛西殿です。

時宗には兄弟がいました。

  • 兄・北条時輔
  • 弟・北条宗政(1253年1月28日誕生)
  • 弟・北条宗時(1180年9月14日誕生)
  • 弟・北条政頼(誕生年不明)
  • 弟・北条宗頼(誕生年不明)
  • 妹・桜田 時厳(誕生年不明)
  • 女子(早世)

 

時宗には兄・宝寿丸(後の北条時輔)がいましたが、父・北条時頼の側室・讃岐局から誕生したため、次男である時宗が後継者となりました。

 

康元2年(1257年)7歳であった時宗は、元服を行い、相模太郎時宗と名乗り始めます。

この元服の儀式は、側室から誕生した兄・北条時輔の元服儀式よりも盛大に行なわれたとされています。

このように壮大に元服の儀式を行うことによって、北条時頼の次期後継者は時宗であるということを周囲にアピールしました。

 

文応元年(1260年)将軍の供奉などを行う小侍所の別当となります

もともと、北条実時が別当に就任していましたが、父・北条時頼は、息子の時宗に経験を積ませるため、複数人も必要のない別当に、時宗を就任させました。

 

弘長元年(1261年)4月、時宗が10歳の時、鎌倉幕府有力御家人である安達義景の娘の堀内殿と結婚します。

後の文永8年(1272年)12月12日に、嫡男となる北条貞時(後の鎌倉幕府第9代執権)が誕生します。

時宗は、生涯側室を持たず、また誕生した子供は1人だけでした。

 

北条時宗の経歴と生涯。最後や辞世の句はある?

文永元年(1264年)7月、鎌倉幕府第6代執権・北条長時が出家し北条政村が鎌倉幕府第7代執権となります。

14歳の時宗はこれに伴って執権の補佐役である連署に就任しました。

この頃、モンゴル帝国ではクビライ・ハーンがモンゴル皇帝となっていました。

 

文永5年(1268年)正月、フビライハンによって高句麗の使者がモンゴル帝国の一部である元王朝の国書を持って現在の福岡県にあたる筑前国の地方行政機関・大宰府に来訪します。

この高句麗の使者が持ってきた元王朝の国書には、蒙古(モンゴル軍)へ服属する要求文が記されていました。

 

同年3月5日、蒙古が日本に服属を求める中、時宗は18歳にして鎌倉幕府第8代執権となりました。

執権となった時宗は

  • 前執権の北条政村
  • 北条政村
  • 北条実時
  • 平頼綱

らに補佐され、蒙古との対外問題の協議を進め

 

  • 全国の荘園の面積や所有関係などをまとめた大田文の作成
  • 御家人の所領譲渡制限
  • 蒙古襲来に備えた異国警固体制の強化
  • 異国の突破の祈祷

などの政策を行います。

 

モンゴルから度々、連絡がありましたが、一切返事を返さず文永8年(1271年)、再びモンゴルから使者が来訪し武力侵攻を警告すると、時宗は九州の御家人たちに蒙古軍との戦闘準備をさせ、蒙古軍を追い返すための異国警固番役を設置しました。

この時、時宗の兄・北条時輔は六波羅探題の別当を担っていました。

 

しかし、文永9年(1272年)弟の時宗が執権になったことに不満を持っていた兄・北条時輔は朝廷に接近を試み、時宗に対し謀反を起こそうと企てます

これに危機感を覚えた時宗は、兄・北条時輔を殺害しました

また、謀反に関わったとされる世良田頼氏は佐渡島へと配流します。(二月騒動)

 

1度目となる蒙古襲来(文永の役)

文永11年(1274年)、蒙古軍が対馬に襲来します。

この襲来は1度目の襲来となり文永の役と呼ばれています。

のちに2度目となる蒙古軍の襲来を弘安の役と呼び、文永の役、弘安の役を合わせて元寇と呼びます。

蒙古軍の兵力は

  • 元軍は15,000から25,000人の主力軍
  • 高句麗軍は5,300から8,000人
  • 軍船は726から900艘

で、日本は圧倒的に兵力不足でした。

 

この戦は運よく神風と呼ばれる暴風雨が吹き荒れ、また日本軍の戦闘の末なんとか蒙古軍の侵略を阻止することができましたが、多くの犠牲者を出します。

翌年、蒙古軍から使節・杜世忠らが来日し、日本に降伏を求めましたが、降伏に合意せず、処刑させました。

 

また弘安2年(1279年)、来日した使節・周福らも大宰府で処刑となります。

時政は、文永の役の惨事を教訓とし

  • 異国警固番役の拡充
  • 新たに長門警固番役に設置
  • 蒙古軍襲来に備え、博多湾岸に長い石塁の構築

などの国防強化を行います。

時政自身も現地に向かい、視察などを行います。

2度目となる蒙古襲来(弘安の役)

その後、弘安4年(1281年)2度目となる蒙古襲来(弘安の役)では、時宗の名前で作戦が指示され御家人が戦場へと赴きました。

約140,000から156,989人の兵力で5月21日に対馬に襲来した元軍は、5月26日になると対馬からほど近い壱岐島にも上陸を果たしました。

 

激しい戦闘は2か月近く続きましたが、最終的に、元軍の多くの舟が台風によって破損し、この混乱を機に、日本軍が総攻撃を仕掛け元軍を撃退することができました。

元軍の壊滅のきっかけとなった台風は、神風と呼ばれています。

 

2度の蒙古襲来を撃退した時宗は英雄とされる一方、

  • 御家人などに対する恩賞問題
  • 財政難の中、3度目の蒙古襲来に備えた国防強化

など多くの問題を抱えていました。

 

しかし、以前から病気を患っていたとされる時宗は、弘安7年(1284年)4月4日に出家し、出家したその日に34歳で亡くなりました

死因は結核または心臓病とされています。

時宗の最後の辞世の句は残念ながら残されていませんでした。

【エピソード】北条時宗の人柄や性格が分かる逸話

北条時宗は禅宗に対する信仰心が非常に深い人物でした。

父・北条時頼と親交のあった

  • 禅僧・蘭渓道隆
  • 南宋から来日した臨済宗の僧・兀庵普寧
  • 南宋から来日した臨済宗の僧・大休正念

から禅宗の教えを受けていたとされています。

 

蘭渓道隆が亡くなった際は南宋から兀庵普寧を日本に招き、弘安5年(1282年)には時宗は元寇(蒙古襲来)の戦没者追悼のため臨済宗円覚寺派の大本山となる円覚寺を創建しました。

 

また貧民やハンセン病患者といった社会的弱者とされる民の救済を行っていた僧・忍性の支援なども行っています。

時宗が亡くなった際は、自身が創建した円覚寺に葬られました。

2度にわたる蒙古襲来では神風と呼ばれる暴風雨や台風で、蒙古を撃退するきっかけが誕生し、日本を勝利に導きました。

2回も神風が吹き、蒙古軍を撃退できたので、もしかすると非常に信仰心の深い時宗に天が味方してくれたかもしれませんね。

 

まとめ 北条時宗はどんな人?分かりやすいおすすめ作品

北条時宗の生い立ちや経歴、性格や家族についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 鎌倉幕府第5代執権・北条時頼から誕生
  • 18歳にして鎌倉幕府第8代執権となる
  • 禅宗に対し、深い信仰心を持っていた
  • 2度にわたる蒙古襲来では神風をきっかけに日本軍を勝利に導く
  • 34歳で結核または心臓病で亡くなる

 

父・北条時頼よりも逸話や伝説などは残されていませんが、蒙古襲来という日本の大ピンチの時期に執権となり、2度も日本を救った人物でした。

蒙古軍は神風によって、日本から撤退し、日本が勝利に終わったと習った方が多いかと思いますが、神風(台風や暴風雨)はきっかけに過ぎず、激しい激闘の末、蒙古軍が撤退したということが真実とされています。

そんな北条時宗が登場する有名なNHK大河ドラマは2001年に放送された「北条時宗」です。

 

この作品では

  • 北条時宗を狂言師の和泉元彌さん
  • 北条時輔を俳優の渡部篤郎さん
  • 北条時頼を俳優の渡辺謙さん

が演じられました。

 

その他にもたかぎ七彦さんの漫画「アンゴルモア元寇合戦記」高橋克彦さんの小説「時宗」に北条時宗は登場しています。

これを機に、北条時宗に興味を持った方はNHK大河ドラマ「北条時宗」や漫画「アンゴルモア元寇合戦記」小説「時宗」を見てみてください。

以上「北条時宗の性格と経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。

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