山南敬助の性格や生涯はどんな人?家族やエピソード、逸話が面白い

あなたは山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ)という人物をご存知でしょうか。

新選組に入隊し、副長、総長となった人物です。

新撰組は脱走した者は切腹というご法度がありました。

しかし、それを承知で山南敬助は新撰組を脱走し、結局、弟のように可愛がっていた沖田総司に見つかり切腹し亡くなりました

なぜ、山南敬助は切腹を承知で新撰組から脱走したのでしょうか。

今回は山南敬助の

  • 生涯
  • 性格
  • 家族
  • 逸話

をご紹介いたします。

これを読めば、山南敬助の生涯や性格、家族や逸話などを知ることができますよ。

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山南敬助の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

山南敬助という名前は

  • やまなみ けいすけ
  • さんなん けいすけ

このどちらかの読み方であったとされています。

山南敬助の史料は少なく、天保4年(1833年)に現在の宮城県に位置する陸奥国仙台藩で誕生したとされています。

一方で、九州地方や沖縄からの移住者ではとも考えられています。

敬助の母や父、また兄弟、生い立ちなどは分かっていません。

敬助は結婚した経歴がないことから、子供はいなかったとされています

山南敬助の経歴や生涯。死因や最後は?

仙台藩で誕生した敬助は仙台藩を脱藩し江戸へ向かったとされています。

江戸に向かった敬助は江戸で小野派一刀流の剣術を学び、その後、北辰一刀流の千葉周作の門人となります。

近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に試合を申し込むも、敗れるといった記録が残されており、新撰組に入隊する以前から近藤勇と交流があったことがわかります。

近藤勇に敗れた敬助は、近藤勇の人柄や剣術の腕前に魅力を感じ慕うようになったとされ、試衛館の門人となり行動を共にします。

試衛館の門人の中には、後に新撰組で共にする

  • 土方歳三
  • 沖田総司
  • 永倉新八

がいました。

文久2年(1861年)正月には、同じ門人の沖田総司とともに小野路に剣術教授に出張に出かけます。

文久3年(1863年)2月、江戸幕府は、江戸幕府将軍・徳川家茂上洛のための将軍警護組織「浪士組」の募集を行います。

この「浪士組」に

  • 近藤勇
  • 土方歳三
  • 永倉新八
  • 沖田総
  • 芹沢鴨

らが参加し、敬助も「浪士組」に参加することとなり、上洛を果たします。

しかし、上洛すると清河八郎から「浪士組」は将軍警護のためにつくられた組織ではなく、実際は尊皇攘夷を目的とした組織でるということが伝えられます。

清河八郎は「浪士組」に参加した浪士たちの署名が書かれた建白書を朝廷に提出すると、江戸へと帰ってしまいました。

これに反対した近藤勇や水戸藩浪士の芹沢鴨らは京都に残ることとなります。

敬助も近藤勇に従い、京都に残ることとなりました。

「壬生浪士組」副長となる

京都に残った「浪士組」は京都守護職を務めていた会津藩預かりとなると「壬生浪士組

」と改名し、市中の警備を行いました。

しかし、敬助は尊皇思想で倒幕派の思想を持っていたとされる人物なので、会津藩預かりになることに対して、よく思っていなかったとされています。

「壬生浪士組」において誰が主導するのかといった主導権争いが始まると、

  • 芹沢鴨率いる芹沢派
  • 近藤勇率いる近藤派

が「壬生浪士組」を牛耳るようになりました。

こうして、敬助は

  • 近藤勇派の土方歳三
  • 芹沢派の新見錦

と共に副長に就任となります。

文久3年(1863年)10月、将軍・徳川家茂のために大坂に滞在していた「壬生浪士組」は滞在中、高麗橋付近にあった呉服屋の岩城升屋に浪士数人が襲撃するといった事件に出くわします。

この事件に対し、敬助は土方歳三とともに呉服屋に駆けつけ浪士の襲撃に成功します。

しかし、敬助はこの際、左腕を負傷しました。

「新撰組」総長となる

翌月の8月、京都から過激攘夷派を追放するといった八月十八日の政変が起こります。

この八月十八日の政変において「壬生浪士組」は御所警護を任され、敬助はその2日後に長州系浪士を土方歳三とともに襲撃します。

この翌月、「壬生浪士組」で再び主導権争いが起き、この際

  • 筆頭局長・芹沢鴨
  • 副長・新見錦

が粛清され、「壬生浪士組」は近藤勇に統一されました。

その後、再び行われた組織再編において敬助は総長となります。

この地位は、

  • 局長・近藤勇
  • 副長・土方歳三

に並ぶ地位であったとされています。

「壬生浪士組」は八月十八日の政変での働きが評価され「新撰組」という名前が与えられます。

組長となった敬助でしたが、この主導権争以降、「新撰組」に関する活動記録に敬助の名前は記されませんでした。

元治元年(1864年)6月5日におきた池田屋事件にも敬助が出勤したという記録はなく、この頃から、敬助は「新撰組」を脱走していたと考えられます。

「新撰組」から脱走する

元治2年(1865年)2月、敬助は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、「新撰組」から脱走をはかります。

「新撰組」には、脱走した者は切腹という厳しいルールがありました。

このルールをもちろん敬助も知っていたはずです。

敬助がなぜ、「新撰組」から脱走した理由は諸説あります。

  • 会津藩に忠誠を尽くすしながら「新撰組」の主導権を握った近藤勇や土方歳三に対し、尊王倒幕を考えていた敬助が対立するようになった。
  • また、隊士が増えた「新撰組」は屯所が手狭になったため、広い西本願寺境内に屯所を移すことなった。

なぜ西本願寺が選ばれたとかというと、西本願寺の僧たちは倒幕派の長州藩と親しいものが多かったため、これを監視するために西本願寺が選ばれたとされる。

これに対し敬助は僧侶を脅かし、長州藩の動向を探るのはよくないと猛反発するも、近藤勇らには取り入ってもらえず対立するようになった。

と考えられています。

敬助が脱走したということを知った近藤勇と土方歳三は、すぐに沖田総司を敬助のもとに追手して送ります。

沖田総司だけを向かわせたのには理由がありました。

それは、敬助が沖田総司を弟のように可愛がっていたためです。

沖田総司なら心を開き抵抗しないであろうと考えられていました。

こうして沖田総司に見つかり、敬助は捕えられると新選組屯所に連れ戻されました

同士の伊東甲子太郎や永倉新八らは、敬助が切腹しなければならないことを知っていたため、再び脱走するように促しましたが、敬助は死の覚悟を受け入れ、元治2年(1865年)2月23日、33歳で亡くなりました。

切腹の際、弟のように可愛がっていた沖田総司が介錯したとされています。

【エピソード】山南敬助の人柄や性格が分かる逸話

山南敬助は非常に温厚な性格で優しい心の持ち主であったとされます。

そのような性格から女性や子供から慕われていたとされ、明治の初め頃まで「親切者は山南・松原」というフレーズが伝えられていたとされています。

隊士からも「サンナンさん」と呼ばれていたと記録され、新撰組の中でもムードメーカーのような存在であったのではないでしょうか。

また新撰組の関係者への取材をもとにした「新選組遺聞」には、「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たちにも評判が良かった」と記述されています。

「新撰組」の幹部が宿所としていたとされる八木家の息子・八木為三郎によると

  • 敬助はあまり背は高くなく色白で愛嬌のある顔であった
  • 子供が好きで、どこにいっても何かしら子供に声をかけていた

と『八木為三郎老人壬生話』に記録しています。

引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8D%97%E6%95%AC%E5%8A%A9#%E4%BA%BA%E7%89%A9

 

まとめ 山南敬助は銀魂に出てる?ドラマや映画はある?

山南敬助の生涯や性格、家族やエピソードをご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 明確な家族や出身地などは分かっていない
  • 近藤勇らとともに「浪士組」に参加する
  • 「新撰組」では組長となる
  • 「新撰組」を脱走する
  • 脱走したため、切腹し33歳で亡くなる
  • 温厚な性格の持ち主で子供好きであった
  • 身長は高くなく、色白で愛嬌のある顔であった

「新撰組」を脱走したのは山南敬助だけではありません。

  • 死体埋葬をしているうちに怖気づき逃亡した酒井兵庫
  • 近藤勇らと思想の違いから逃亡した田中寅蔵
  • 「新撰組」は借金を禁じていたのに対し、借金をしてしまい逃亡した柴田彦三郎
  • 粗暴を働いたため、他の隊士から嫌われ居づらくなったため逃亡した三浦啓之助

などがいます。

他にも、逃亡した隊士はいたとされています。

「新撰組」が殺害した数は敵よりも味方が多かったとされ、「新撰組」のルールの厳しさが分かります。

そんな山南敬助が登場している有名な大河ドラマは「新撰組!」です。

この作品では

  • 山南敬助を俳優の堺雅人さん
  • 近藤勇を俳優の香取慎吾さん
  • 土方歳三を俳優の山本耕史さん
  • 沖田総司を俳優の藤原竜也さん

が演じられています。

色白で、温厚な性格、心優しく子供好きであったとされる、山南敬助を堺雅人さんが演じられるなんてピッタリの配役ではないでしょうか。

幕末を舞台史にした漫画『銀魂』には、残念ながら山南敬助は登場していません。

これを機に山南敬助に興味を持った方は大河ドラマ「新撰組!」を見てみてください。

以上「山南敬助の性格や生涯、家族やエピソード、逸話」のご紹介でした。

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