里見義堯(さとみ よしたか)の経歴や逸話を簡単に。北条氏康とどちらが強い?

あなたは里見義堯(さとみ よしたか)という人物をご存知ですか?

里見義堯は安房国(現在の千葉県南部)を治めていた大名です。

安房国を含む関東地方で1番の勢力を誇っていたのが、相模国(神奈川県)小田原を拠点としていた北条氏(鎌倉時代の執権北条氏と区別するため後北条氏とも言う)です。

そんな大勢力の北条氏と里見義堯は関東の覇権を巡って争っていました。

関東の諸勢力が北条氏に屈していく中、里見義隆は1回も北条氏に屈することはありませんでした。

今回は里見義堯について

  • 里見義堯の経歴とは
  • 里見義堯の逸話とは
  • 里見義堯と北条氏康の関係、どちらが強い?

を紹介します。

こちらを読めば里見義堯の経歴や逸話がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

 

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里見義堯(さとみ よしたか)の経歴とは

里見義堯は永正4年(1507年)に安房国で生まれます。

  • 父は里見実堯
  • 母は佐久間盛氏の娘

の嫡男として生まれます。

ただ、里見義堯は里見氏本家ではなく分家の生まれでした。

里見義堯は天文2年(1533年)に家督を相続することになりますが、この家督相続はただの相続ではなくクーデターによるものでした(稲村の変)。

※稲村の変は後で紹介します。

クーデターによって里見氏の当主となった里見義堯は領土拡大のために、まずは、隣国上総国(現在の千葉県中部)の真里谷氏内で起こっていた後継争いに介入します。

この後継争いには相模の北条氏も介入してきますが、里見義堯は小弓公方(関東を治めていた古河公方の分家)の足利義明と手を結び、北条氏が支援していた真里谷信隆を討ちます。

その後、天文7年(1538年)に起こった第一次国府台合戦(こうのだい かっせん)で手を結んでいた足利義明が戦死すると、小弓公方の領地であった上総国や下総国(千葉県北部)に進出し領土を拡大します。

里見義堯は本拠地を上総国の久留里城にして、さらなる領地拡大に動きます。

ところが、天文10年(1541年)に北条氏の当主が北条氏康に変わると、里見義堯は氏康の調略によって苦しめられることになります。※里見氏傘下の国人勢力の離反

これ以降、里見義堯は北条氏康と関東の覇権を巡って、義堯自身が亡くなる天正2年(1575年)まで続けられることとなりました。

天文24年(1554年)には北条氏康が今川義元や武田信玄と同盟を結び関東への進出してくると、里見義堯は上杉謙信らと手を結び北条氏に抵抗します。

永禄5年(1562年)に里見義堯は出家し家督を嫡男の義弘に譲り隠居します。※ただ、実権は握っていました。

しかし、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で北条軍に敗れ上総国の大半を失い安房に退却します。

永禄10年(1567年)には嫡男・里見義弘の活躍で北条軍を打ち破り、上総国を再び支配するようになります。

そして、里見義堯は天正2年(1574年)に久留里城で亡くなりました。

享年68歳でした。

里見義堯は人生のほとんどを北条氏と戦っていました。

里見義堯の死後は、嫡男の里見義弘が継ぎ、北条氏康の後を継いだ北条氏政と和睦することになります(房相一和)。

 

里見義堯(さとみ よしたか)の逸話とは

今回は里見義堯の家督相続について紹介します。

この逸話は里見義堯が里見氏の当主となった天文2年(1533年)の時の話で里見氏での内紛である稲村の変というものです。

しかし、この稲村の変は伝承と史実が全く違うように書かれていて、謎に包まれたものでもあります。

安房里見氏 2代目~6代目 家系図

 

~伝承上の家督相続~

まずは伝承を紹介します。

里見義堯の伯父で里見氏3代目当主の里見義通が病弱であったため、永正15年(1518年)に義通の嫡男で義堯の従兄・里見義豊が家督を継ぎます。

この時、里見義富はまだ5歳であったため、義通の弟で義堯の父・里見実堯が義富が15歳になるまでの間の後見人となりました。

ところが、義富が15歳になっても実堯は北条氏と争いを理由に家督相続をせず、天文2年(1533年)に里見義富が20歳になった時にようやく家督を譲ることを決めます。

一方、義富側の家臣らが実堯の言動に不満を持ちはじめ、義富に対して以下のような噂話を持ちかけます。

「実堯は側近らとともに息子の義堯を次期当主にしようとしている」

 

この話を聞いた里見義富は激怒し、同年7月27日に実堯がいた稲村城を襲い、実堯を殺害します。

父・実堯の死を聞いた里見義堯は天文3年(1534年)4月6日に里見氏の宿敵でもあった北条氏と手を組み、稲村城にいた義富を攻撃し自害させます。

そして、里見義堯は里見氏の当主となりました。

 

~近年の研究による新史実~

まず、里見義通が病弱であったことは事実ですが、里見義富が家督を継いだのは5歳ではなく、すでに政治ができる年齢にあり父の代理を務めていました。

この際、里見義富は稲村城、義堯は父・実堯とともに上総国の金谷城に入ります。

しかし、里見氏と敵対関係にあった北条氏の当主・北条氏綱(氏康の父)が里見義富を排除するために里見実堯に接近します。

この動きに危機感を持った里見義富は、北条氏と関東の覇権を巡って争っていた小弓公方・足利義明を味方にし実堯を稲村城に呼び殺害します。

※他にも義富が実堯に下克上されることを恐れたため

そして、義富は義堯を倒すべく金谷城を攻撃しますが、北条軍の参戦もあり敗れ上総国の真里谷氏のもとへ逃げます。

しかし、里見義富は復讐心に燃える里見義堯の前に敗れ、天文6年(1533年)の犬掛の戦いで戦死または自害します。

こうして、里見義堯は当主となりましたが、この後、経歴の所でも書きましたが真里谷氏での後継争いに介入し、味方であったはずの北条氏綱とは敵対関係になってしまいます。

 

~まとめ~

まず、この話の1番の疑問点は里見義富の年齢が異なっているところです。

また、この里見義堯の家督継承は、ただの里見義堯によるクーデターではなく、周辺勢力も巻き込んだ後継争いということです。

この時の陣容図を見てみると

  • 里見実堯方 → 里見義堯、北条氏綱
  • 里見義富方 → 足利義明(小弓公方)、真里谷氏

という感じになります。

では、なぜ伝承と史実が違うのか。

簡単に言うと、稲村の変後の状況が里見義堯にとって以下のように都合の悪いことだらけであったためです。

  • 本家である里見義富を滅ぼしたこと
  • 敵であった北条氏と協力したこと
  • 当主となった後に北条氏と敵対したこと
  • 敵であった小弓公方・足利義明についたこと

これらを隠すために

  1. 里見義富の年齢を下げ
  2. 幼い義富の後見として支え忠誠を誓い
  3. 成長した義富が恩を仇で返す形義富を殺害し
  4. これを仇討ちとして義堯が義富を討って当主となった

という話を作ったものだと見られています。

これが分家の出であった里見義堯が里見氏の当主になることになった稲村の変の事実ということになります。

 

里見義堯と北条氏康の関係、どちらが強い?

里見義堯と北条氏康は長年関東の覇権を巡って争っていました。

まず、二人が生まれた年を見てみると

  • 里見義堯 → 永正7年(1507年)
  • 北条氏康 → 永正15年(1515年)

と里見義堯の方が8歳年上でした。

また、当主となった年は

  • 里見義堯 → 天文2年(1533年)
  • 北条氏康 → 天文10年(1541年)

と8年もの差がありました。

そんな二人が最初に戦うことになったのは天文7年(1538年)の第一次国府台合戦(足利義明vs北条綱)です。

里見義堯は足利義明方として参戦しますが目立った戦闘はせず、足利義明が戦死したことで戦いは終わります。

里見義堯は敗戦しますが、足利義明の死が上総国と下総国に進出する要因となりました。

そして、天文10年(1541年)に北条氏康が当主となると争いは激しさを増します。

この頃の里見氏と北条氏の勢力範囲を見てみると

  • 里見氏 → 安房国・上総国一部
  • 北条氏 → 相模国・武蔵国・上総国・下総国・伊豆国

と北条氏の方が圧倒的に勢力はありました。

永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では重臣の正木信茂を失い上総国からの撤退を余儀なくされ一時的に衰退します。

しかし、里見氏は滅びませんでした。

その理由は

  • 安房国の地形
  • 北条氏を取り巻く情勢
  • 義堯の戦略

が上げられます。

 

~地形~

里見義堯が北条氏康の攻撃に耐え、里見氏が滅びなかった理由に安房国の地形があります。

房総丘陵

上の航空写真は房総半島の航空写真です。

安房国の特徴としては

  • 房総丘陵と言われる丘陵地帯が広がっている
  • 三方が海に囲われている

という地形です。

この地形によって安房国へ攻める敵は、陸路では一通であったため攻めにくい状況でした。

また、戦国時代の関東は湿地帯であったため、重い甲冑をつけていた兵や馬は簡単に沈み、歩くのがやっとだったでしょう。

ちなみに、湿地帯であった関東、特に東京を現在のようにしたのは徳川家康が最初に開拓を始めたためです。

これは安房国を攻めようとしていた北条軍にとって大きな障害となりました。

 

~北条家を取り巻く情勢~

関東地方は室町時代に幕府が設置した鎌倉府(長官を鎌倉公方と呼ぶ)が治めていました。

しかし、鎌倉府は鎌倉公方・足利氏と関東管領(鎌倉府のナンバー2)・上杉氏の内部対立によって崩壊し、鎌倉公方は本拠を下総国古河(現在の茨城県古河市)に移し古河公方となります。

※関東管領の上杉氏も独立する

一方、この鎌倉府の崩壊を好機とみた北条氏康の祖父・北条早雲が伊豆から関東へ侵入し小田原を拠点に勢力を拡大させようとします。

そして、時代が進み北条氏康の代になると、北条氏の勢いに危機感をもった古河公方は対立していた関東管領上杉氏と手を組むようになりますが、天文15年(1546年)の河越城の戦いで敗れ、北条氏を勢いづかせてしまいます。

しかし、古河公方と関東管領上杉氏を倒しても、常陸国の佐竹氏や下野国の宇都宮氏、そして、関東管領を継いだ上杉謙信らが関東を狙っていたため、北条氏は周りを敵に囲まれる形になります。

もちろん里見義堯も上杉謙信らと手を結び北条氏に抵抗します。

 

~義堯の戦略~

もう1つは里見義堯の対北条の戦略です。

最初に書いた地形にも関わってきますが、三方を海に囲まれていたことは里見義堯にとっては、

  • メリットは一通の陸路を抑えれば大体は敵を討てること
  • デメリットは逃げ場がなく負ければ全滅になる

という地形でした。

しかし、里見義堯は陸路だけではなく海路にも目をつけ、海賊を基盤とした水軍を組織します。

そして、この水軍は安房国周辺の海上の警備だけではなく、北条領の三浦半島を攻撃し北条方の領民から略奪していました。

これには北条氏康も簡単には安房国へ攻めるのは難しかったでしょう。

また、陸路では丘陵地帯であったことを活かし、ゲリラ戦を展開していました。

 

~まとめ~

これらを踏まえ、里見義堯と北条氏康はどちらが強い?という事ですが、どっちが強いかを決めるのは難しいでしょう。

理由としては、里見義堯は攻められる側で北条氏康は攻める側であり、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いのような全面戦争ではないからです。

ただ、里見義堯と北条氏康が全面戦争した場合は、兵数・石高・資金からして北条氏康の方が圧勝でしょう。

両者を全面戦争に持ち込ませず、里見氏が生き残れたのは、地形・情勢があっての義堯の戦略といった多くの要因があったことでしょう。

まとめ 里見義堯(さとみ よしたか)は結局どんな人?大河ドラマや映画や小説はある?

ここまで里見義堯について紹介してきました。

まとめてみると

  • 里見義堯の家督相続はクーデターによるものだった
  • 里見義堯は生涯のほとんどを北条氏康と戦っていた
  • 里見義堯は戦略にかけていた

里見義堯に関する大河ドラマは残念ながらありません。

里見義堯に関する本

  • 『里見義堯 北条の野望を打ち砕いた房総の勇将』 小川由秋

があります。

ぜひ読んでみてください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「里見義堯の経歴や逸話を簡単に。北条氏康とどちらが強い?」でした。

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