あなたは南部晴政という人物をご存知ですか?
東北地方の戦国武将と聞かれてまずでてくるのは奥州の独眼竜・伊達政宗でしょう。
しかし、伊達政宗が登場する前の東北地方で勢力を広げたのは南部晴政でした。
南部晴政は南部氏の全盛期を築きましたが、晩年には内部の対立によって勢いを失います。
今回は南部晴政について
- 南部晴政の生い立ちや家族。子孫は誰?
- 南部晴政の生涯。家臣で有名な人物は?
- 【逸話】南部晴政の泥や刀のエピソードとは?
を紹介します。
こちらを読めば南部晴政の生涯やエピソードがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
南部晴政の生い立ちや家族。子孫は誰?
南部晴政は永正14年(1517年)に現在の青森県(陸奥国北部・出羽国北部)で
- 父は南部安信(南部氏第23代当主)
- 母は不明
の嫡男として生まれます。
幼名は彦三郎です。
ちなみに南部晴政と同じ1517年生まれの人物には
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正親町天皇 → 第106代天皇
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玄広恵探 → 今川家後継争い(花倉の乱)で今川義元に敗れる
がいます。
南部氏の始祖は鎌倉時代前期に活躍した南部光行といわれています。
この南部光行が奥州合戦(1189年、鎌倉幕府vs奥州藤原氏)の功績によって陸奥国糠部5郡(現在の青森県八戸市)を与えられたことから始まります。
その後、南部光行の6人の息子が以下の南部氏の本家と分家を興します。
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長男 → 一戸南部氏の祖
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次男 → 三戸南部氏(南部本家)の祖となる 南部晴政が出た家
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三男 → 八戸南部氏の祖
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四男 → 七戸南部氏の祖
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五男 → 四戸南部氏の祖
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六男 → 九戸南部氏の祖
ちなみに、南部光行の父は甲斐源氏の流れを汲む加賀美遠光であり、遠光の兄は甲斐武田氏の祖である武田信義の父・源清光です。
これを見ると、南部晴政と武田信玄は遠い親戚ということになります。
※武田家に仕えた南部氏もいる
南部晴政の子には
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南部晴継 → 晴政の嫡男
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南部信直 → 晴政の養子で従弟
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女 → 南部信直の正室
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女 → 九戸実親の正室
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女 → 北秀愛の正室
らがいます。
南部本家であった三戸南部氏は江戸時代になると
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盛岡藩 → 三戸南部氏が藩主
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八戸藩 → 盛岡藩から分立した藩
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七戸藩 → 幕府旗本の領地であったが盛岡藩が加増して成立させた藩(盛岡新田藩とも呼ばれる)
の3藩を成立させ大名格として残ります。
また、明治時代にはこの3藩は華族(貴族階級の1つで大名華族)に列せられます。
その後の南部氏には
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南部利祥 → 第42代当主、日露戦争で戦死
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南部利英 → 第44代当主、公爵一条実輝の三男で南部家に婿入りする
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南部利昭 → 第45代当主、靖国神社の元宮司
がいます。
なお、鎌倉時代から明治時代まで領地を支配していたのは南部氏と薩摩島津氏などとごくわずかでした。
南部晴政の生涯。家臣で有名な人物は?
~家督相続~
南部晴政が生まれた永正14年(1517年)当時の情勢としては、関東を治めていた古河公方家の
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足利高基(3代古河公方)
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足利義明
の兄弟間で対立が起き、弟の足利義明が小弓公方(本拠が小弓城)を自称し独立します。
一方、南部氏の周辺には
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出羽国北部(秋田県)の安東氏・戸沢氏
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陸奥国中部(岩手県)の葛西氏・斯波氏
らがいました。
南部晴政の父・南部安信は勢力を拡大するために、晴政が8歳の時に津軽地方(青森県西部)を平定します。
これ以降、南部晴政は父に従い
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天文6年(1537年) 陸奥国紫波郡(現在の盛岡市南部に位置する郡)で斯波軍と戦う
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天文8年(1539年) 謀反を起こした家臣の赤沼備中を討ち取る
といった活躍をします。
なお、赤沼備中による謀反の際に南部氏の本拠地であった聖寿寺館(しょうじゅじだて、本三戸城とも呼ばれる)を焼失し、多くの書物が燃えたと言われています。
また、天文8年(1539年)には南部晴政は上洛して将軍・足利義晴から「晴」の字を賜ります。
天文9年(1540年)には岩手郡(現在の盛岡市の北部周辺)に斯波軍が侵攻してきますが、叔父の石川髙信がこれを撃退します。
南部晴政は20歳頃までは父に従い南部氏の勢力拡大に貢献してきましたが、天文10年(1541年)に父の南部安信が亡くなります。
南部晴政は父の後を継ぎ24歳で南部氏の当主となります。
ただし、この家督継承には以下の疑問点が残っています。
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晴政以前の史料が少ない
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南部氏本家は晴政が出た三戸南部氏ではなく八戸南部氏
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本家の八戸南部氏を三戸南部氏が討って家督を継いだ
~勢力拡大~
24歳で当主となった南部晴政は父と同様に勢力拡大に動きます。
まずは南部氏に謀反を起こした工藤氏を滅ぼし、焼失した聖寿寺城の近辺に三戸城を築城します。
しかし、南部晴政には40歳を過ぎても男子がいなかったため、永禄8年(1565年)に叔父・石川高信の庶長子(母が正室ではない長男)で従弟の田子信直を長女の婿にして養嗣子(養子が後継者)にします。
養子ではありましたが後継者を決めた南部晴政は安東氏との戦いを始めます。
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永禄9年(1566年) 安東軍が阿仁地方(現在の北秋田市の一部)の長牛城へ攻めてきま すがこれを撃破する
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永禄10年(1567年) 安東軍が再び長牛城を攻撃し城が陥落する
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永禄11年(1568年) 安東氏の鹿角郡(現在の秋田県鹿角市と小坂町)を奪還する
これら安東氏との戦いでは南部一族の九戸氏・八戸氏・一戸氏が活躍しました。
とくに九戸氏の九戸政実には晴政の「政」の字を与え主従関係を強化しました。
この頃の南部領は
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北は青森県下北半島
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南は岩手県北上川中央部
まであり、この状況を「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われました。
意味は「三日月が満月なるまで(約15日)歩いても南部氏が治めている領地」だということです。
~養嗣子・信直との対立と内部分裂、そして晴政の死~
青森県全域と岩手県の一部を領地とした南部晴政はさらなる勢力の拡大を目指します。
さらに、元亀元年(1570年)晴政が53歳の時に待望の男子が生まれます。
南部晴政は息子に晴継と名付けます。
しかし、この男子の誕生が南部氏を分裂させる原因となってしまいます。
南部晴政にはすでに養嗣子となっていた南部信直がいましたが、晴継の誕生で次第に信直を遠ざけていったため、南部晴政と南部信直の関係は悪化します。
そんな中、元亀2年(1571年)5月に南部重臣の大浦為信が南部信直の実父・石川高信がいる石川城(青森県弘前市にあった城)を攻撃し高信を自害させます。
これは大浦為信の謀反ではなく、南部信直の実家である石川家を弱体化させる南部晴政によるものだともいわれています。
元亀3年(1572年)には南部晴政は毘沙門堂を参拝していた南部信直を攻撃しますが、南部信直が放った弾が南部晴政と九戸実親(晴政の娘婿)にあたります。
幸い2人とも命に別状はありませんでした。
この事件によって一触即発の事態になる可能性がありましたが、天正4年(1576年)に南部信直の正室(晴政の長女)が亡くなると、信直は養嗣子を辞し田子城へ逃げます。
これによって事態は収束するかと思いきや南部晴政の南部信直への不満は収まらず緊張状態が続きます。
すると南部家内部は
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九戸氏らの南部晴政派
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北氏や八戸氏らの南部信直派
に分かれてしまいます。
ところが、天正10年(1582年)に南部晴政は66歳で亡くなってしまいます。
死因として病死、南部信直による反乱の説があります。
ちなみに南部晴政と同じ1582年に亡くなった人物は
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織田信長
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明智光秀
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武田勝頼
らがいます。
~晴政死後の南部家~
南部晴政の死後、後を継いだのは嫡男の南部晴継でしたが、晴政の死から1ヶ月後に13歳で亡くなってしまいます。
晴継の死因として以下の説があります。
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天然痘(戦国時代の呼び方は疱瘡、ほうそう)によって亡くなった
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父・晴政の葬儀後に三戸城に帰る道中で暴漢に襲われ亡くなった※暴漢は南部信直または九戸政実が指揮していたと言われている
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父・晴政とともに南部信直によって殺された
南部晴継の死によって今度は南部氏本家を巡って後継争いが起こります。
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南部信直 → 晴政の養子
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九戸実親 → 晴政の娘婿で九戸政実の弟
この争いは九戸政実・九戸実親の兄弟が南部信直に対して兵を起こして始まりますが、天正19年(1591年)に豊臣秀吉への反乱と見なされてしまいます。
理由としては、豊臣秀吉が行った
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奥州仕置(東北地方の大名の領地に再分配)
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惣無事令(大名間で勝手に戦争をしてはいけないこと)
に違反するものと判断したためです。
結局、この戦いは九戸政実・九戸実親の反乱として討伐され(九戸政実の乱)、この兄弟は処刑されます。
これ以降、南部氏本家は南部信直が継ぎ、江戸時代になると南部信直の嫡男が盛岡藩の初代藩主となり、信直の家系が明治維新まで続くことになります。
【逸話】南部晴政の泥や刀のエピソードとは?
南部晴政に関する史料が少なくエピソードは多くありませんがいくつか紹介します。
南部晴政のエピソード1.泥を塗られる
このエピソードは南部晴政が鷹狩りに行ったときの話です。
南部晴政が領内のある村の前を通った際に、田植えをしていた農民らはその場に平伏しましたが、18歳くらいの少女が突然飛び出してきて「殿様にお祝い申し上げます」と言い、泥が付いた手を晴政の顔や服に塗りつけます。
この泥を塗るという行為は無病息災を願ったもので、日本では昔からあった風習でしたが、相手が身分の高い人の場合は話が違ってきます。
この場にいた農民全員が凍りつきましたが、晴政は笑みを浮かべながら「めでたいことである」と言って、そのまま立ち去ったといいます。
後日、晴政はこの少女を呼び自分の妻とします。
さらに、南部晴政には男子がおらず(養子の信直はいた)後継者問題を抱えていましたが、53歳の時にこの少女との間に嫡男の晴継が生まれます。
南部晴政のエピソード2.刀を盗まれる
ある時、南部晴政の刀が盗まれる事件が発生します。
結局、犯人は見つからず刀番をしていた者は自分を罰するように申し出ます。
しかし、南部晴政は刀番の者を罰すどころか以下の言葉をかけ罰しませんでした。
「刀番といっても一日中ずっと番をしているわけではない。それならば罰する必要も無い。また、刀があるのは城の奥であるから刀ひとつを盗むために泥棒が来るところじゃない。もし、武士が金銭や穀物を盗んだのなら処罰するが、今回のは不問とする。」
また盗んだ者に対しては
「盗んだのは泥棒ではなく刀に興味があった若侍だろう。しかし、その若者は将来は有望な武士となり南部家に仕えてくれるだろう。」
と言ったそうです。
まとめ 南部晴政は結局どんな人?大河ドラマや映画や小説はある?
ここまで南部晴政について紹介してきました。
まとめてみると
- 南部晴政は伊達政宗より以前に東北で勢力を広げた
- 南部晴政は子どもに恵まれなかった
- 南部晴政の初めての男子は50歳を過ぎてからだった
- 南部晴政は養子の南部信直と争った
南部晴政が登場する大河ドラマや映画は残念ながらありません。
南部晴政に関する小説
- 『南部は沈まず』 近衛龍春
があります。
他にも、南部晴政の関係本として
- 『南部信直』 森嘉兵衛
もあります。
ぜひ読んでみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「南部晴政の性格と家臣や子孫は誰?泥の逸話や刀のエピソードとは」でした。
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