長尾為景の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは長尾為景という人物をご存知ですか?

長尾為景は、義の武将で有名な上杉謙信の父です。

しかし、長尾為景は最初の主君を死に追い込み、2人目の主君を傀儡(操り)とするなど、「義」の武将・上杉謙信とは真逆の悪く言えば「奸雄(悪知恵にたけた英雄)」というイメージがあります。

ただ、長尾為景は下克上でのし上がった実力者でもあり、上杉謙信が戦国大名になれ、現在でも人気の武将になれたのは為景のお陰でしょう。

今回は長尾為景について

  • 長尾為景の生い立ちとは?
  • 長尾為景の経歴や最後は?
  • 【エピソード】長尾為景の人柄や性格が分かる逸話

を紹介します。

こちらを読めば長尾為景の生涯や逸話がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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長尾為景の生い立ちとは?

長尾為景は文明18年(1486年)に越後国で生まれます。

  • 父は長尾能景(よしかげ、越後守護代)
  • 母は高梨氏の娘 ※高梨氏は信濃国(長野県)の豪族

幼名は六郎です。

越後長尾氏の始まり

長尾為景が生まれた長尾氏は府内長尾氏とも呼ばれ、代々越後守護の上杉氏を補佐する越後守護代を務めてきました。

※その他の長尾氏には以下の氏族があります。

  • 上田長尾氏 → 上田荘(新潟県南魚沼市)を本拠 ※上杉謙信の養子・上杉景勝を輩                        出
  • 古志長尾氏 → 古志郡(新潟県長岡市)を本拠
  • 三条長尾氏 → 蒲原郡(新潟県三条市)を本拠

府内長尾氏の初代は長尾景恒という人物で、景恒は南北朝時代に室町幕府初代将軍・足利尊氏の命で関東管領に就任した上杉憲顕の家臣です。

その後、長尾景恒は養父・長尾景忠から越後守護代の地位を譲り受け、越後長尾氏(府内長尾氏)が始まります。

父・長尾能景とともに上杉房能に仕える

長尾為景の若い頃は、父の長尾能景と一緒に越後守護・上杉房能に仕えます。

上杉房能が実兄で関東管領・上杉顕定のもとへ援軍を派遣した際には長尾為景も関東へ出陣しています。

ところが、永正3年(1506年)に上杉房能の命で越中国(富山県)の一向一揆を討伐するために派遣された父の長尾能景が戦死してしまいます(般若野の戦い)。

この時、長尾為景は20歳でした。

長尾為景の経歴や最後は?

20歳で守護代になった長尾為景ですが、すぐに窮地が訪れます。

守護代の急な代替わりの隙を突いて、中越地方(新潟県中部)の五十嵐氏や石田氏が越後守護上杉氏に対して謀反を起こします。

長尾為景は上杉房能の討伐命令を受けるとこの反乱をすぐに鎮圧します。

この功績によって長尾為景の名声は高くなりましたが、主君・上杉房能とはうまくいきませんでした。

主君・上杉房能が長尾為景の討伐準備を始めるも、対抗する

すると、永正4年(1507年)に上杉房能は「為景謀反の気あり」と言い、長尾為景の討伐準備を始めます。

長尾為景はこれを事前に把握し上杉房能の屋敷を襲撃し自害させます。

上杉房能の養子・上杉定実を守護につかせ、守護代として実権を握る

ただ、このままだと為景は謀反人となってしまうため、上杉房能の養子・上杉定実を守護につかせ、為景は守護代として実権を握ります。

しかし、この傀儡に不満を持ったのが越後国北東部の本庄氏や色部氏、そして上杉房能の兄で関東管領であった上杉顕定です。

長尾為景は蘆名氏や伊達氏の援軍を借りて本庄氏や色部氏を討ちますが、永正6年(1509年)に上杉顕定が大軍を率いてくると、越後国府中をはじめ中越や上越(新潟県南西部)を奪われ、長尾為景と上杉定実は越中国へ逃れます。

長尾為景は越中国で幕府や越後・信濃・陸奥の諸勢力と連絡をとって越後への帰還を探っていました。

越後統一に動き出す

そして、永正7年(1510年)4月に海上から越後へ進軍し、6月には長森原の戦いで上杉顕定を敗死させ、長尾為景は越後府中や上越・中越を奪還します。

これ以降、長尾為景は越後国統一へ動きます。

無碍光衆禁止令を発行

永正9年(1542年)には反乱を起こした揚北衆の鮎川氏を鎮圧し、大永元年(1521年)には一向宗(浄土真宗)の信仰を禁じる無碍光衆禁止令(むげこうしゅうきんしれい)を出します。

その後は、北陸地方へ侵攻するなど積極的な勢力拡大に動くも、越後守護・上杉定実との対立や下越地方(新潟県北部)の豪族らの反乱によって越後を統一するのに苦戦します。

長尾為景の最期

そして、天文5年(1536年)に長尾為景は隠居し、5年後の天文10年(1543年)に57歳で亡くなります。

長尾為景亡き後、嫡男・長尾晴景と四男・長尾景虎(後の上杉謙信)が争いを起こす

長尾為景の死後、後を継いでいた嫡男・長尾晴景と四男・長尾景虎(後の上杉謙信)の間で争いが起こり、結局、長尾晴景が弟である長尾景虎を養子に迎え、景虎が府内長尾家当主となり越後守護代を引き継ぎます。

そして、越後守護の上杉定実が男子を残さないまま亡くなったため、天文19年(1550年)に13代将軍・足利義輝の命令で越後守護を代行します。

その後、長尾景虎は越後守護代行として越後国を治め、越後国を統一したのは長尾為景の孫で長尾景虎の養子となった上杉景勝です。

越後を統一したのは長尾為景が亡くなった44年後でした。

【エピソード】長尾為景の人柄や性格が分かる逸話

下克上で実権を握った長尾為景ですが、為景の詳細な経歴は史料が少ないためはっきりしていないため、これといった逸話はありません。

ここでは私なりに長尾為景の人物像を考察してみます。

長尾為景は史料が少ない影響からか以下のように語り継がれています。

「謙信のことを嫌い排斥しようとした悪い父親」

 

しかし、上杉謙信は後に父を尊敬している旨の手紙を書いていることから、為景と謙信の不仲説は否定できるでしょう。

また、『春日山日記』という軍法書で上杉謙信の一代記には、長尾為景と長尾能景(為景の父)の経歴が混同され、長尾能景が戦死した永正3年(1506年)の般若野の戦いで為景が戦死したと書かれています。

※富山県には実際に長尾為景の塚が存在しています。

これも否定されています。

このように長尾為景は史料が少ないことから誤解されていいる部分が多々あります。

そこで実際に長尾為景の生涯も見てみると、主君を自害に追い込んだり傀儡にするなどしていましたが、当時の時代背景も影響しているでしょう。

まず、長尾為景が生きた1400年後半から1500年前半は1467年に起きた応仁の乱の影響で室町幕府の権威は落ちていました。

そうした中、幕府から任命された各国の守護は大名化していました。

また、弱っていた守護の隙を狙って守護を補佐していた守護代など身分が低い者が上の者を倒す下克上が各地で起こっていました。

※下克上で権力を握った主な人物

  • 尼子経久 → 出雲守護代として守護の京極氏から出雲の支配権を奪う
  • 北条早雲 → 堀越公方・足利茶々丸を討ち伊豆国を手に入れる
  • 浅井亮政 → 近江守護・京極氏の家督争いに介入し京極氏を傀儡とする

長尾為景も主君・上杉房能との戦い(房能が仕掛けた戦い)で勝利したからこそ実権を握れました。

また、長尾為景は守護にはつかず、あくまで守護代の地位にいました。

さらに、長尾為景は朝廷や幕府を尊重し献金を行うなどし、武力ではなく平和的に越後国の統治者としての長尾家を作り上げていったのでしょう。

これらを見ても、長尾為景は身の程をわきまえた人物であることがわかります。

「奸雄」として見られるのは、息子である上杉謙信が信義を重んじる人物として現在まで伝わってきたからであり、長尾為景と上杉謙信は真逆のことをやってきたからでしょう。

まとめ 長尾為景はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで長尾為景について紹介してきました。

まとめてみると

  • 長尾為景は上杉謙信の父だった
  • 長尾為景は下克上で権力を握った
  • 長尾為景は朝廷や幕府の権威を尊重していた

長尾為景が登場する大河ドラマには1969年の『天と地と』があります。

ぜひ見てみてください。

以上、「長尾為景の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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