残留日本兵であったとして有名な横井正一さん。
実は横井正一さんの他にも残留日本兵となった人がいました。
名前は小野田寛郎といい、1944年12月にフィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となりフィリピンへと渡りましたが、日本が敗戦してもなお任務解除の命令が届かなかったため、1974年3月12日までフィリピンで滞在していたとされています。
残留日本兵となった小野田寛郎さんは一体どのような人物であったのでしょうか。
そこで今回は小野田寛郎さんの
- 生い立ち
- 経歴
- 残留日本兵となった経緯
- 帰国後
についてご紹介していきます。
これを読めば小野田寛郎さんの生い立ちや経歴、残留日本兵となった経緯やフィリピンでの生活を知ることができますよ。
小野田寛郎さんの生い立ち。家族や兄弟、子供はいる?
小野田寛郎は大正11年(1922年)3月19日、現在の和歌山県海南市で
- 父・種次郎(県議会議員)
- 母・タマエ(教師)
の四男として誕生しました。
兄弟には
- 長兄・敏郎(東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校)
- 次兄・格郎(東京帝国大学、陸軍経理学校卒の経理将校)
- 弟・滋郎(のちに陸軍士官学校、陸軍大学校に入校し航空部隊関係の兵科将校)
がいました。
貿易会社に就職し、中国で働く
旧制海南中学校に通っていた小野田寛郎は剣術の選手として活躍していたとされています。
中学を卒業するとの貿易会社(田島洋行)に就職をし、中華民国の漢口支店勤務となります。
中国で働いていたため、中国語を話せるようになっていました。
歩兵第61連隊に入隊後、久留米第一陸軍予備士官学校へと入校
昭和17年(1942年)12月、上海の商事会社で働いていた小野田寛郎は20歳になったため、徴兵検査を受け、本籍地である和歌山歩兵第61連隊の陸軍二等兵として入営します。
当時、小野田寛郎が入営した和歌山歩兵第61連隊は戦地に動員されていたため、その留守部隊として入営となりました。
同時に留守部隊の中で編成された歩兵第218連隊に転属すると、在営中に甲種幹部候補生に志願、合格し、昭和19年(1944年)1月に久留米第一陸軍予備士官学校へと入校となります。
陸軍中野学校二俣分校に入校
久留米第一陸軍予備士官学校を卒業した小野田寛郎は中国語、英語が堪能であったことから選抜され、同年9月に陸軍中野学校二俣分校に入校します。
この学校では主に遊撃戦の教育がされていました。
遊撃戦とはあらかじめ手段や戦法など決め、臨機応変に対応するといった戦法です。
そのため当時の教科書には
- 隠密行動
- 潜伏の要領
- 夜襲動作の方法
など様々な戦法が記されており、後に小野田寛郎も実行することとなります。
また当時「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の教えが唱えられていましたが、陸軍中野学校二俣分校ではこの教えとは異なり
- 最後の一人になっても戦え
- 玉砕(日本軍部隊が全滅)してはいけない
- 敵の捕虜になっても死んではいけない
といった主力の軍隊が撤退しても任務を全うしなければいけないような教訓が唱えられていたとされています。
小野田寛郎さんはなぜ残留日本兵になったの?
予備陸軍少尉に任官
約3か月間特訓を受けた小野田寛郎は昭和19年(1944年)11月に卒業すると、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官となります。
翌月の12月には、フィリピン防衛戦の第14方面軍情報部付となりました。
フィリピン防衛戦とは第二次世界大戦後期、日本に奪われたフィリピンを奪還しようとする連合国軍とそれを防衛する日本軍との戦いです。
フィリピンに派遣された小野田寛郎は残置諜者および遊撃指揮の任務が与えられ、フィリピンに到着すると第8師団参謀部付に配属となりました。
第8師団参謀部の師団長・横山静雄陸軍中将は小野田寛郎らに対し
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
と伝えたとされています。
これまで主力の撤退後も任務を全うするよう教えを受けていた小野田寛郎らでしたが、戦陣訓を全否定するような教えを受けるととなりました。
アメリカ軍の攻撃を受けルバング島の山間部に逃げ込む
同月31日、フィリピンのルバング島に到着すると秘密飛行場の警備にあたります。
その際、日本兵は現地の住民の家を拠点にしていたとされています。
小野田寛郎がルバング島で長期持久体制の準備を行っていましたが
- 島の中にいる日本兵の一部に「引上げ命令」が出されていたため、戦意が低かった
- 小野田寛郎には指揮権はなかった
このようなことから小野田寛郎はルバング島にいる日本兵をうまくまとめられず、昭和20年(1945年)2月28日、アメリカ軍が上陸した際は日本陸軍の各隊はアメリカ海軍艦艇の艦砲射撃によって突破されることとなり、小野田寛郎らはルバング島の山間部に逃げ込む結果となりました。
フィリピンで戦闘活動を継続
こうして山間部へと逃げ込んだ小野田寛郎らは救援を待ちましたが、ついに救援はくることはなく、昭和20年(1945)日本はポツダム宣言を受諾し正式に無条件降伏を行い、終戦を迎えます。
終戦を迎えてもなお、ルバング島の山間部に逃げ込んだ小野田寛郎のもとには任務解除の命令が届かなかったため
- 赤津勇一陸軍一等兵
- 島田庄一陸軍伍長
- 小塚金七陸軍上等兵
とともに戦闘を継続しました。
この時は日本が負けたということを知らないため、戦闘を続けるしか方法はありませんでした。
またもしルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために、情報収集を続けていたとされています。
一方、日本では終戦を迎えた翌月の9月から戦死公報が出されていました。
戦死した人たちの名前が掲載されることとなりましたが、この時、小野田寛郎らが生きているのかそれとも戦死しているのかまだはっきりと分かっていない状態でした。
しかし、小野田寛郎とともにルバング島で戦闘を継続していた赤津勇一陸軍一等兵が昭和25年(1950年)に投降したことによって、残る3人の残留日本兵が未だフィリピンにいるということが判明します。
一方で、小野田寛郎ら3人が残るフィリピンは戦後まもなくしてアメリカからの支配から独立していました。
しかし、独立後もアメリカ軍はフィリピンに留まっていたとされています。
敗戦したことも知らない、フィリピンがアメリカの支配から抜けたことも知らない小野田寛郎らは、フィリピンに残るアメリカ軍に対し
- アメリカ軍によるフィリピン支配は継続されている
- フィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」
と解釈しており、そのため持久戦を決意した小野田寛郎らはアメリカ軍に対し
- アメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃
- 撹乱攻撃
など計百数十回もの戦闘を繰り広げたとされています。
約30年間継続された戦闘行為によって民間人やアメリカ軍人、フィリピン警察軍など30人以上が亡くなったとされ、現地の住民は未だアメリカ軍に対し攻撃をしかける小野田寛郎らを山賊と呼び恐れていたとされています。
小野田寛郎さんのフィリピンでの生活とエピソード・逸話。
昭和24年(1949年)頃になると、小野田寛郎らは山間部での生活にも慣れていたとされ
- 海岸の岩間にできた塩を年に1、2升採集する
- 自生するヤシの実を拾う
- 牛を月に2頭ほど屠殺する
- 現地民の農耕牛を野生牛と解釈し、乾燥肉にする
など様々な工夫をし、飢えをしのいでいました。
小野田寛郎らは手に入れたトランジスタラジオを改造し短波受信機を作り、世界情勢を得ていたとされています。
小野田寛郎さんの帰国
昭和29年(1954年)頃から残留日本兵を帰国させるため捜索隊が小野田寛郎のもとに接近しますが、その際に置いていった日本の新聞や雑誌から日本の情勢を得ていたとされています。
当時、捜索隊が残していった雑誌や新聞には
- 皇太子成婚の様子
- 1964年の東京オリンピック
- 東海道新幹線開業
などの様子が記されていました。
これを目にした小野田寛郎は日本の繁栄を知ることなりますが、小野田寛郎は日本はアメリカの傀儡政権で満州国に亡命政権があると考えていたとされています。
その後も、小野田寛郎は降伏を呼びかけられますが、敵対放送に過ぎないと考え降伏しませんでした。
任務解除・帰国命令が下される
しかし、そんな小野田寛郎でしたが共に戦闘を継続してきた
- 島田庄一陸軍伍長が1954年5月7日射殺され戦死
- 小塚金七陸軍上等兵が1972年10月19日射殺され戦死
以降、孤独から疲労を感じるようになります。
昭和49年(1974年)冒険家・鈴木紀夫が一連の残留日本兵の捜索に触発されフィリピンへと渡ると、2月20日にジャングル内で小野田寛郎を発見します。
その際、鈴木紀夫は小野田寛郎に日本が敗北したこと、また日本の現状などを説明したとされ、それを聞いた小野田寛郎は直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承しました。
これによって3月9日、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐から「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令」によって小野田寛郎に任務解除・帰国命令が下されます。
日本への帰国
こうして小野田寛郎はジャングルから出てくると3月10日、フィリピン軍基地でフィリピン軍司令官に軍刀を渡し降伏の意志を伝えました。
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フィリピン軍に降伏の意志を伝えた小野田寛郎は昭和49年(1974年)3月12日、日本の羽田空港へ帰国を果たすこととなり、小野田寛郎の約30年と長い太平洋戦争は幕を閉じました。
ちなみに小野田寛郎が日本に帰国する2年前の昭和47年(1972年)1月には、ハワイで残留日本兵である横井正一が発見されており、2月2日に28年ぶりに日本へと帰国しています。
横井庄一はなぜ残留日本兵になったの?グアムでの生活から帰国までのエピソード
小野田寛郎さんの帰国後の生活とは?
帰国後、ブラジルに移住
日本に帰国した際、小野田寛郎は「天皇陛下万歳」と叫んだとされています。
またフィリピンで生活を送っていた際、多数の軍人や住民を殺傷したことや、本当に敗戦を知らなかったのか?といった疑問から、マスコミから「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」など批判されるようになります。
小野田寛郎は日本政府から見舞金として100万円を渡されましたが、受け取りませんでした。
しかし、それでも日本政府は見舞金を渡してきたため、小野田寛郎はそれらの見舞金と国民から寄せられた義援金のすべてを靖国神社に寄付しています。
2年前に帰国した残留日本兵の横井正一は日本の生活に驚くほどの速さで馴染めましたが、横井正一とは異なり、小野田寛郎は日本の生活に馴染めず、帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住し、10年を経て牧場経営を成功させました。
保守系の活動家となる
その後、2010年7月には東京都中央区佃で暮らし始めたとされ、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任、社団法人日本緑十字社理事にも就任するなどの活躍を見せます。
また保守系の活動を行っていた小野田寛郎は慰安婦問題の真偽に対し日本の責任を否定する、田母神論文問題で更迭された田母神俊雄元航空幕僚長を支持するなどの活動を行いました。
講演活動を続けていた小野田寛郎でしたが、平成26年(2014年)1月16日、91歳で肺炎によって亡くなりました。
まとめ 小野田寛郎さんに関する本は?
By http://www.wanpela.com/holdouts/profiles/onoda.html, パブリック・ドメイン, Link
小野田寛郎が残留日本兵となった経緯についてご紹介しました。
簡単にまとめると
- フィリピン防衛戦の第14方面軍情報部付となりフィリピンに上陸
- アメリカ軍からの攻撃を受けルバング島の山間部に逃げ込む
- 日本の降伏を知らず、降伏後も任務を継続する
- 冒険家・鈴木紀夫から帰国を促され約30年ぶりに帰国
- 帰国後、ブラジルに移住、その後日本で保守系の活動を行う
ご紹介した小野田寛郎は
- 『わがルバン島の30年戦争』
- 『No Surrender: My Thirty-Year War』
- 『戦った、生きた、ルバン島30年 少年少女におくるわたしの手記』
- 『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争 (人間の記録 (109)』
- 『ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い』
などを記されています。
他にも共著として
- 『遥かに祖国を語る 小野田寛郎・酒巻和男対談』
- 『だから日本人よ、靖国へ行こう』
- 『「靖国」のことを語ろう』
などがあります。
これを機に小野田寛郎さんに興味を持った方は、『わがルバン島の30年戦争』『小野田寛郎―わがルバン島の30年戦争 (人間の記録 (109) 』『「靖国」のことを語ろう』などを読んでみてください。
以上「小野田寛郎が残留日本兵となった理由!フィリピンでの生活や帰国後のエピソード」のご紹介でした。
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