マムシ ってご存知でしょうか。日本に生息する毒蛇の一種で未だ何人かの方が噛まれてなくなっている恐ろしい蛇です。
日本には代表的な毒蛇が3種類。ハブ、ヤマカガシ、そしてマムシがいます。そのうちマムシは一番性格がおとなしく、滅多なことでは噛み付いたりしないそうです。が、マムシは田んぼに住んでいて農作業中に誤って踏んづけてしまい、噛まれることが多いんだそうです。
目に見えないところに潜んで一発必中。また医学の発展していない当時の農家の方にとっては脅威だったのではないでしょうか。
戦国時代、この蛇に例えられた武将がいました。それが斎藤道三です。道三は途中途中で名前も主君も変わります。チャンスとあらばそれがタブー視されることであっても躊躇なく実行するその姿から「マムシ」と呼ばれたのではないでしょうか。
そんなマムシの一生をたどってみることにしましょう。
斎藤道三の生い立ちは?
斎藤道三という人物は「油売りから身を立て、美濃の国を乗っ取った」といわれてきましたが、「六角承禎条書(ろっかくしょうていじょうしょ)」による記述によって、国盗りは道三とその父・長井新左衛門尉による「親子二代」で成し遂げたという「国盗り二代説」が有力視されるようになっています。大河ドラマの「麒麟がくる」もこの見解に基づいて放送されています。
この仮説は研究の世界だけでなく、一般の戦国ファンにもショッキングに受け止められました。ドラマ性でいうと一代でのし上がったほうが魅力的と思われますが、私個人としては、お父さんと2代で成し遂げた下剋上、のほうがよりリアルに感じられます。
ただし、それがゆえに斎藤道三の幼少期は謎に包まれたものとなっています。
斎藤道三の父の生涯
まずは道三の父「長井新左衛門尉」の生涯について追っていきましょう。
彼の誕生年や出自は不詳ですが、若いころは京都の妙覚寺で修業を積む僧の身分でその名を庄五郎と言いました。
先祖は代々「北面の武士」と呼ばれる御所(天皇を引退した上皇の住まい)の警護を担当し、名誉ある一族の出身であるともされていますが、少なくとも庄五郎が誕生した頃はすでに単なる下級の武士に過ぎなかったと見なされています。
庄五郎は20歳頃には還俗(僧の身分から平民に戻ること)して “松波庄五郎” と名乗り、髪を伸ばして大山崎の油屋として第二の生涯を歩み始めたようです。この時期は油売りの「特許」を神社が独占しており、油が実質的に専売制のものとなっていました。(このことは後で斎藤道三の経済改革に関わってきます。)
彼は商売人としての才覚や僧をしていた時の人脈を生かし「座」と呼ばれる商工組合に食い込んでいき、商人として成功を収めたようです。
『美濃国諸旧記』によれば、油を注ぐときに、漏斗(=口の小さい容器に液体をそそぐときに使う、あさがお型の道具。)を使わずに一文銭の穴に通すパフォーマンスを行い、油がこぼれたら代金は無料にする、という商法によって評判を得ました。そしてある時、油を購入した土岐氏の武士から「その油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれると思われるが、惜しいことだ」と言われ、庄五郎は槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったと言われています。
まるで実演販売の元祖。。。今も昔もパフォーマンスに日本人は弱いですね。
当時の美濃の守護(室町時代の県知事みたいなもの)である土岐氏らは庄五郎が持つ「京都の情報」を重要視しており、元々は庄五郎が武士の家系出身であったこともあって家臣に取り立てることにしたようです。当時美濃には守護(国主)である土岐頼房がいて、家臣の守護代がいて、その下に代官として働く小守護代の長井秀弘がいました。その長井家家臣であった西村氏という一族の跡取りとして雇用され、 “西村勘九郎” を名乗る武士となったのでした。
中途採用には実績と資格、それに家柄も重視されたわけですね。あまり令和の時代と相違ない感じが興味深いところです。
その後、彼は美濃国内で勃発した守護大名の跡継ぎ騒動の戦で手柄を立て、どさくさにまぎれて?神がかり的な速さで出世をしていきます。永正15年(1518年)ごろには主君の長井氏とほぼ同格の扱いを受けるほどの重臣に成長。このころに長井の姓をもらい受けて、”長井新左衛門尉” を名乗るようになります。
日本史の面白いところは、こういう現在の社会でも通じる人間臭さもあると思います。
当時、美濃では守護の座をめぐって土岐頼芸・頼武兄弟の抗争が勃発。この戦は美濃だけでなく近隣の守護大名であった朝倉氏や浅井氏までもが介入する大きなものになっていきました。
新左衛門尉は頼芸の支持者として戦いに参加し、頼武の追放に成功します。そうしてますます新左衛門尉自身はこの戦を利用して勢力を伸ばしていたようです。
こうした状況の中、彼の息子である道三は父の家督を継き、頼芸の重臣として活躍していくことになります。新左衛門尉は天文2年(1533年)に亡くなったとされ、天下取りの夢は道三へと引き継がれていくのです。
斎藤道三のマムシ流
まずは、自分の父を登用してくれた長井氏に手を付けます。越前国に追放された土岐頼武に内通したとして、当時実権を握っていた長井長弘を上意討ちの名目で殺害しました。この後に道三は”長井新九郎規秀” に改名しています。 これが道三の下剋上のはじまりです。
道三は、土岐氏の家督争いでは本来の主家であった土岐頼武ではなく、頼芸方の武将として一連の合戦に参加していたとみられ、頼武の死後に跡目を継いだ甥の土岐頼純に敵対する行動をとっていたようです。美濃追放以降、父の恨みを晴らさんと、六角氏や朝倉氏と同盟を結んで守護の座を取り戻そうとする頼純に対し、守護となっていた頼芸の重臣として戦に対処していくこととなりました。ただし、隣国とも結びついた頼純の勢力は強く、彼は妻や子の斎藤義龍を伊勢の地へと非難させるほどに危機感を覚えていたようです。
次第に追い込まれていった頼芸および道三でしたが、最終的には天文5年(1536年)に頼純を美濃国内の大桑城城主として認めることで和解を図りました。
こうして美濃では頼芸と頼純という二つの勢力が成り立つこととなり、美濃には一時の平和が訪れました。
しかし、頼芸および道三はこの現状を黙って眺めていたわけではありませんでした。
天文12年(1543年)には先の大桑城を急襲し、頼純およびその妻子を美濃から追放することに成功します。ここで国を逃れた頼純らは尾張の織田氏および越前の朝倉氏に救援を要請し、彼らはそれに応じて翌年に美濃へと攻め込みました。
ここで道三は優れた軍略の才を発揮し、軍勢で勝る織田・朝倉軍を首尾よく撃退しました。
偽計を巧みに用いた戦略に敵方は翻弄され、頼純の復権を果たすことができずに帰国していきます。
しかし、天文15年(1546年)には背景の軍勢を警戒した道三や頼芸は頼純と和議を結び、彼は美濃への帰国を果たしました。この帰国は、頼純の次期守護就任が内定したために実現したものともされていますが、その詳細は分かっていません。
その詳細が分からなくなってしまった最大の理由は、頼純が翌年に急死してしまうのが原因です。彼の死については暗殺とも病死とも伝わっていますが、真相は不明なままです。ひょっとすると、マムシが自分の毒で・・かもしれません?
道三は止まりません。守護代で満足しなかったマムシは着々と準備をすすめ、ついに天文19年(1550年)に主君土岐頼芸を美濃から追放することに成功します。
名実ともに「国盗り」を成し遂げたのでした。
裏切りに次ぐ裏切りは見事としか言いようがないのですが、本当のことは想像するしかないのが歴史の面白いところです。
斎藤道三と織田信長
さて、頼純の死を受けて、彼の支援者であった織田信秀(信長の父)は翌年にすぐさま美濃へと兵を派遣しました。この際も道三はよく美濃を守っていますが、一方で彼は勢力で勝る織田家の存在を脅威にも感じていたようです。
加えて、織田家にも駿河の今川義元や国内の政情不安といった懸案事項があり、両者の意向が合致する形で道三と信秀の間で同盟が結ばれました。
この条件として信秀の嫡男・信長に嫁入りしたのが、道三の娘であり「濃姫」という名でよく知られる女性です。ただし、この同盟は主君である頼芸の意向を汲んだものではないと考えられており、天文18年(1549年)にはすでに彼の許しを得ない形で書状を発行していることに注目しなければなりません。
いろいろな事情を含んだ結婚でしたが、斎藤道三にとっても織田信長は興味を惹かれる存在だったようで、会見が行われる正徳寺に織田が到着する前に街道筋の民家に潜み、やって来た織田一族を覗き見したと言われています。
信長の出で立ちは噂通りのタワケチャラ男スタイルでしたが、斎藤道三は装備に目を見張ったようです。当時の標準的な長さより1メートルは長い長槍500本と弓500、鉄砲500丁をもたせるという奇抜な編成であり、元気な足軽を行列の最前列に配置しました。さらに会見場所についたところでさっと屏風を引き回し、立派な正装に着替えました。
信長は、さらに、あっけにとられている道三の家臣の挨拶など一切無視して正徳寺に近づき、その門柱に寄りかかって道三を待ちました。
屏風を押しのけて道三が出てきて、信長に、家臣が「こちらが山城守(斎藤道三)です」というと信長は「で、あるか。」と一言だけ発し、そのまま道三に挨拶をして座敷に座ったとのことです。
道三は湯漬け(お茶漬けのようなもの)と酒を振る舞い、信長と道三の会見は程なく終了しました。
道三の家臣が「やはり信長は阿呆ですね」といったところ、「そのうち、私の家臣は必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになるだろう。」と答えたそうです。
兵法に優れる斎藤道三は、鉄砲を合戦で使用することをすでに試していましたし、長い槍は足軽のように馬のないものが馬に乗った武将に対して有利に戦う事ができる武器である。さらにはその長い槍を使いこなすための軍事訓練も優れていることを見抜いたのでしょう。
門前に馬をつなぐとは、そのうち私の部下はみな信長の部下になってしまうだろう、と予言したことになります。
この結婚にはもう一つエピソードがあります。
いよいよ輿入れとなる前日に斎藤道三が娘に短刀を渡しました。そして、「もし信長が本当の阿呆ならば、この短刀で殺してこい。」と言い含めました。
頭の切れる濃姫は、その短刀を見つめて「ひょっとすると、この短刀は父上を刺すことになるかもしれません。」と答えたとか。
おそらくはできすぎた作り話なんでしょうが、この手の話は興味をそそられます。
斎藤道三の経済改革
斎藤道三の父親が油売りから身を起こしたことは先にも書いたとおりですが、そこでの座、市とは何でしょうか?
市とは多くの人が集まって物を売買する場所のことです。はるか律令制時代には、官設の市が平城京・平安京それぞれの東西にひらかれ、地方の国府でも開催されていました。中世以後、交通の要地に設けられ、また次第に定期市として発達し、貨幣の流通によって交換の場から商業市場へと発展しました。つまり、漁師が野菜と交換する場から貨幣と品物を交換する、すなわち購入する場になっていたわけです。
そしてその市へ物流を流す団体として、座が形成されました。座は仕入れの運搬路・運搬具を独占し、通行税・営業税を取り、座外の商人・職人は営業させずに除外しました。また、座同志の連携も頻繁に行われ、生産地と消費地の連携や、大都市の座が地方の座を支配するなどと言ったことも行われました。 これは、現代の法律では禁止されていますが。
室町時代には守護という行政の一つの単位の長がいましたが、それ以前にも当然支配者が存在し、市を開催する経費や場の提供にかかる経費の名目で搾取する輩が存在しました。
織田信長が本能寺を焼き討ちしたことは有名で、まるで織田信長が狂気の殺人鬼のように伝えているのも見受けられますが、当時の市、座は神社や寺が関わっており、それが僧兵といった傭兵を雇って既得権益(ある社会的集団が歴史的経緯により維持している権益のこと)をむさぼっていたためという見方もあります。
この市、座を無視して関税などを軽減することで物価は安くなります。市と座をフリーにすることを楽市楽座といい、斎藤道三はこれを行い、自国の経済を活性化したと言われています。ただし斎藤道三が初めて行ったのではなく、天文18年(1549年)に近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見とされています。
また、今川氏真の富士大宮楽市も早いとされ、翌年の織田氏など以後の大名による楽市令などに影響を与えたともいわれています。
この自由な市場という意味で、楽市楽座はある有名な会社の社名のもとになっています。そう、楽天です。『様々な商品・サービスが活発に取引される場である「楽市楽座」に、明るく前向きな「楽天」のイメージを合わせることにより「楽天市場」という名前が生まれました。楽天株式会社という社名もこの「楽天市場」に由来しています。』(楽天HPより)
いずれにしても、当時の戦国大名は周囲の敵に対する備えから領民の政治、勢力争いと絶え間ない仕事に追われて、気が休まる暇もなかったと思われます。
斎藤道三の最後
守護の立場を盤石にしていたかに思えた道三でしたが、その成功は長く続きませんでした。
天文17年(1548年)、斎藤道三は家督を息子である義龍に譲り、一線を退きます。しかし、義龍は以前の主君土岐頼芸の前妻との間に生まれた子であり、じつは頼芸の子であったのではないかとの説があります。
そのためかどうか、長男である義龍を斎藤道三は軽く扱い、義龍は普段から面白くなかったようです。
疑心暗鬼に駆られた義龍は、自分の仮病を使って弟たちを呼び出し、殺してしまいます。そして、ついに親子で戦となってしまったわけです。
しかし、この戦いには開戦前から10倍以上の戦力差が有り、始める前から道三の敗北は見えていました。そもそも、噂とはいえ土岐家の血筋を引くと言われる義龍と自身の主君を殺した道三。かつての土岐家系の家臣たちがどちらにつくかは自明の理でした。
👉今日は何の日?
弘治2年4月20日は、#斎藤道三 の命日です。
下剋上で美濃の国盗りを成し遂げた道三でしたが、家督を譲った子の #斎藤義龍 との関係がしだいに悪化。やがて2人は「長良川の戦い」で激突し、道三は命を落としました。https://t.co/JaAC86YMzr— 歴人マガジン (@rekijin) 2020年4月19日
圧倒的不利のなか斎藤道三はよく戦いましたが、ついに首を取られるときが来ました。斎藤道三の最後の引導を渡したのは、かつて道三の部下であった無名の荒武者小牧源太と言われています。
義龍は稲葉山城から1万7500とも言われる大軍を率いて、鷺山城から出陣して長良川に対峙する道三の2700余の軍勢に襲い掛かりました。いわゆる「長良川の戦い」です。
(かつて御恩を被った大殿を、他の者に討たせてたまるか!)
源太はこの時、自らを見出してくれた道三への恩義を感じながらも、義龍の軍勢に加わっていました。
道三は寡兵ながら、義龍方の先方であった竹腰道鎮を討ち取り、一騎打ちを挑んできた長屋甚右衛門(義龍方)も柴田角内(道三方)が討ち取るなど、緒戦を優位に進めました。
「さすがは大殿じゃ…」 父と子の二代で、一介の油商人から美濃国主までのし上がった道三の戦法はやはり見事でした。 しかし、さすがに多勢に無勢・・・。
道三方は徐々に崩れ始め、その多くが討ち死にし、道三の周りにはわずかな近習を残すのみとなりました。
「城田寺(きだいじ)へ逃れ、そこで腹を切る」
近習たちにそう告げると、道三は鷺山城の北にある城田寺へ落ち延びようとしました。
ところが、そこへ義龍方の武士数名が道三を必死に追いかけてきました。
「生け捕りにして義龍様の御前に引き立てるのだ!」
長井忠左衛門(義龍の家臣)が生け捕りにするために、道三に襲い掛かり組み敷きました。
「下郎め!」
道三は必死に抗いますが、齢六十三になる老人の力ではどうしようも出来ません。
忠左衛門が道三に縄をかけようとした、その時でした―――。
「どけ!」
その場に駆け付けた源太が、忠左衛門と道三を斬り付けました。
その一刀は忠左衛門をかすめ、道三のすねを薙ぎました。
「何をする小牧殿!」
驚いたのは忠左衛門でした。自分が生け捕りにしようとしていたにも関わらず、道三もろとも斬られそうになったためです。思わず組み敷いていた道三から離れてしまっています。
「大殿はわしが討ち取る!」
すねを斬られた道三は、満身創痍ながら何とか顔を上げ、眼前の荒武者と目を合わせました。
「おう、源太か。生け捕りにされて引き立てられるなど御免じゃ。頼む」
源太は無言で深く頷き、刀を上段に構えました。
「大殿、お世話になり申した」
刀が振り下ろされ、道三の首が胴から離れました。国盗りを成し遂げた戦国の梟雄の最期でした。
道三の首は義龍の下へ運ばれた後、長良川にさらされました。普通であれば、そのままさらされるのですが、なぜか道三の首はすぐに長良川から姿を消しました。
(大殿の斯様な姿など、見たくはない!)
道三の無残な姿に心を痛めた源太は、実は密かに長良川から首を運びだし、土中に埋めて葬っていたのです。
源太が道三の首を埋めたと言われる場所は長良川の洪水によって流されてしまいましたが、江戸時代後期に別の場所に移され、現在も「道三塚」として岐阜市の道三町に残されています。
最後の最後までドラマチックだった道三の一生いかがだったでしょうか。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の 本木雅弘演じる斎藤道三(利政)が、毎回凄い迫力で鳥肌ものです!!
こんなにすごいなら、斎藤道三が主役で『蝮がくる』にすればよかったのに。 pic.twitter.com/xUL7apfvE7
— ファルコ (@steinsgate_Cris) 2020年4月25日
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