伊庭八郎の性格はどんな人物像?生い立ちや経歴、エピソードや逸話が面白い

徳川幕府の終わり、幕府軍として奮闘した剣客伊庭八郎(いばはちろう)。

あなたは知っていますか?

幕末のイケメン男子として人気の高い人物です

今回は、伊庭八郎について

  • 生い立ちと経歴は?
  • エピソードからわかる伊庭八郎の性格と交友関係
  • 伊庭八郎の意外な一面とは?

を紹介します。

こちらを読めば、伊庭八郎の生涯や人となりが分かります。

イケメン好きもそうでない人も、ぜひ読んでください。

 

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伊庭八郎の生い立ちと経歴

伊庭八郎は、天保15年(1844年)心形刀流宗家(しんぎょうとうりゅうそうけ)伊庭秀業(ひでなり)の長男として生まれました。

心形刀流とは、有名な剣術流派で伊庭秀業は「幕末江戸四大道場」の一つの錬武館という道場を営んでいました。

幼少のころの八郎は、剣術道場に生まれながら剣術より学問に興味をもっていて、体もそれほど強くありませんでした。

剣術を本格的に始めたのは、遅かったのですが、天才的な剣の才能で

  • 「伊庭の小天狗」
  • 「伊庭の麒麟児」

などと呼ばれ、注目されていました。

  • 元治元年(1864年) 奥詰(将軍の親衛隊)となる
  • 同年 講武所の剣術教授方となる

講武所とは、幕府が作った武芸訓練所です。

旗本や御家人、その子供たちが剣術や様式訓練・砲術などを習っていました。

その後は

  • 慶応2年(1866年) 奥詰が改編、遊撃隊となり、八郎もその一員となる
  • 慶応3年(1867年) 遊撃隊に上洛命令が出る。将軍を大阪まで護衛したのち、伏見に布陣する
  • 慶応4年(1868年) 鳥羽伏見の戦い勃発。遊撃隊も参加するが敗れて江戸へ戻る
  • 同年 5月 彰義隊と官軍の上野戦争が始まる。箱根の関所を守っていた遊撃隊も小田原藩と先頭になる。

小田原藩との戦の中で、八郎は左腕を切断され、その後は右手一本で戦い続けました

  • 慶応4年(明治元年)末 八郎は函館に到着。榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府軍として新政府軍(官軍)と戦う
  • 明治2年(1869年) 木古内の戦いで胸部に銃弾を受け、致命傷となる
  • 同年5月12日 函館五稜郭内で榎本に渡されたモルヒネを飲み干して自決する

享年わずか26歳でした。

八郎が亡くった6日後、旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争が終わりました。

伊庭八郎の性格が分かる面白いエピソードとは?

伊庭八郎を語る上で欠かせないのが、「遊撃隊(ゆうげきたい)」です。

伊庭八郎と遊撃隊

薩摩や長州の力が大きくなり、幕府が劣勢に立たされてくると、先祖代々徳川に仕えてきた藩までが徳川の敵に寝返っていきました。

そんな時代の波にあらがって最後まで徳川のために戦かった男たちの中に遊撃隊もいたのです。

鳥羽伏見の戦いで敗れた後も遊撃隊は新政府軍への徹底抗戦を誓い、同志と共に戦い続けます。

箱根での小田原藩との戦は、激戦を極めます。

伊庭八郎は銃弾が腰をかすめ、一瞬隙ができたところを小田原藩士高橋藤五郎に左手首を皮一枚残して斬られました。

それでもまだ右手があると戦い続け、3人もの敵を斬ったという豪胆さでした

八郎はその後しばらくして、左手の治療を受けています。

幸い当時の最先端技術を持った医師の治療を受けたことで、命に別条はありませんでした。

その時の治療というものは、まだ残っていた左の肘から先を改めて切断して縫合するという方法だったのですが、現代でも怖いようなこの手術に、八郎は「他人が自分の骨と切ろうとしているのに、眠っていられるか」と言って、麻酔を受けずに挑みました。

そして手術の間、顔色一つ変えずにいたという話です。

伊庭八郎は、色白の美男で江戸の女がほおっておかないほどのイケメンでしたが、その肝は驚くほど太かったのです。

 

左腕が無くなっても八郎の活躍は続きました。

函館へ行ってからも、遊撃隊隊長として最後まで戦い続けました。

イケメンで函館の戦争での活躍といえば、もう一人思い浮かぶ人物はいませんか?

新選組副長土方歳三です。

実は、土方と八郎は江戸にいたころからの知り合いだったのです。

土方歳三の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い

伊庭八郎と土方歳三

土方と八郎は、土方のほうが9歳年上で兄貴分でした。

八郎の実家「錬武館」は、有名な剣術道場でしたが、土方のいた近藤勇の「試衛館」にも八郎は遊びに行っています。

そのきっかけがどのようなものだったかは、定かではありませんが幕末を代表するイケメンが二人もそろっていたのです。

さぞもてたことでしょう。

やがて土方は上洛して、新選組を結成、八郎も剣術教授方として江戸にいました。

二人の再会は慶応4年(1868年)の戊辰戦争、函館の地でした。

すでに左腕を無くしていた八郎と近藤勇・沖田総司を亡くした土方。

でも激戦を生き抜いてきた二人です。

久しぶりの再会につらい話などしません。

ここまで戦ってきた男同志、「よくやった」とねぎらいあったことでしょう。

二人はそれぞれの持ち場で戦い抜きます。

土方歳三は、最後の戦いで元新選組の仲間たちを助けに行く途中で銃弾に倒れました。

その翌日、伊庭八郎は、死期を悟り、自決しました。

 

江戸の悪友二人は、1日違いで旅立っていきました。

伊庭八郎の人物像が分かる面白い逸話とは?

少し切ない話が続きましたが、次はとっても美味しい話です。

イケメンスイーツ男子だった?

伊庭八郎は22歳の時、将軍警護のため京にやってきていますが、その時のことを書いた日記が残っています。

『征西日記』(せいせいにっき)という本ですが、これがその題に似合わずとても楽しい内容なのです。

関西の寺巡りの話や何を食べたのか、どこの店がおいしかったとか、まるで幕末版旅行雑誌のようです。

ウナギに舌鼓を打ったり、赤貝を食べ過ぎておなかを壊したり、なんともかわいらしい八郎の姿が目に見えるようです。

また八郎は、甘いものが好きで、ようかん・おしるこ・おだんご・カステラなどをよく食べていました

右腕一本で戦って逝った勇ましい八郎からは想像できないようなスイーツ男子像。

これも伊庭八郎の魅力です。

まとめ:伊庭八郎の生い立ちやエピソードから知る人物像

今回は、伊庭八郎について紹介しました。

簡単にまとめておきましょう。

  • 伊庭八郎は剣術の天才
  • 伊庭八郎は豪胆な遊撃隊隊長
  • 伊庭八郎は最後まで幕府のために戦った
  • 伊庭八郎は片腕となっても強かった
  • 伊庭八郎は意外にもスイーツ好き

伊庭八郎は幕臣として、徳川を見捨てなかった義勇心にあふれた侍の一人でした。

義勇心とは、忠義と勇気を持った心です。

現代にはお殿様や主君がいるわけではないので、少しわかりにくいかもしれませんが、自分たちの祖先がずっと仕えてきた主君を裏切ることなど決してできない、負けると分かっていても戦い続けるというのは、それだけで勇気のいることです。

伊庭八郎は、武士として最期まで忠義と勇気の心で生き抜いた人だったんです

もっと伊庭八郎を知りたい人には、こんな本がおすすめです。

  • 幕末武士の京都グルメ日記 山村竜也

本文で紹介した「征西日記」の現代語訳版です。

当時の人々がどのような生活をしていたのかが垣間見える内容で楽しいです。

京都の町も散策して、鞍馬や貴船、島原などにも行った感想が書かれています。

この本片手に八郎の歩いた道をたどってみると、面白い歴史めぐりができそうですよ。

  • 伊庭八郎幕末異聞シリーズ 未熟者・士道の値・櫓のない橋 秋山香乃
  • 伊庭八郎凍土に奔る 秋山香乃

幕末異聞シリーズは、伊庭八郎の幼いころから講武所剣術教授方になる前の話で、新選組を結成する前の土方らも登場しています。切ない恋心ややんちゃな八郎が描かれていて伊庭八郎として活躍する前の生き生きとした姿が気持ちいい作品です。

後者の作品は、遊撃隊の一員として戊辰戦争を戦い抜く八郎を中心に描いています。

どちらも読みやすくて読み応えのある作品です。

私は個人的に秋山香乃さんの作品が好きでよく読んでいますが、今回紹介した伊庭八郎の小説は特におすすめですよ。

以上、「伊庭八郎の生い立ちや経歴、逸話からわかる人となり」でした。

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